2013年 11月 26日
読書録の代わりに (青春時代の思い出) |
10月後半から11月にかけて読んだ本を羅列してみた。そのうちの何冊かは、強く印象に残ったものもあり、面白く読んだものあり、また反発を感じたものもあり、その都度、感想書けばよかった、と思うのだが、いつもの癖で後回しにしてしまう。後になると思い出すのも時間がかかり本も手元になく余計にまとまらなくなる。
そこで、代わりと言ってはおかしいのですが、先日ある冊子に書いたものを、恥を忍んで、転載します。自分史の一部であり、冥途のみやげ、といったところです。
私の青春時代
① 青春の日を訪ねて
数年前の1月2日。正月早々なのに予定もなく、みんな出掛けたので、私も気晴らしに出掛けることにした。
ずっと考えていた、東京の思い出の地を訪ねてみようと思い立った。伊勢原駅でスイカを3000円分チャージ、残金があったので6千円近くになった。
行き先が箱根とか鎌倉とか横浜とかいくつか浮かんだが、最初の予定通り、新宿に向かう。
目的地に行く前に、街のお正月風景を見ようと新宿の明治通りと靖国通りを歩いた。お正月早々人出の多いのに驚く。デパートも福袋の売り出しで大賑わい。5千円、1万円ともっと高いものもあり5万円分の商品が入っていて5千円!と大声で宣伝しており、ちょっと誘惑に駆られそうになる。
昼食は、中村屋のインドカレーでも食べようかと入るが、2階のレストラン入り口から3階まで並んでおり、30分待ちというのでやめた。歩数計を付けており、すでに1万歩を越えていた。
山手線に乗り恵比寿で降りた。駅前の空き地が整備され(何年か前?)きれいな駅ビルになっている。恵比寿ガーデンという素敵なショッピング街にも足を向けたが目的地でないので、Uターンした。
駅ビルの5階のレストラン街で食事することにし、何にしようか迷ったが、ここにも中村屋の支店があり空いていたので、インドカレーを頂く。チキンカレーでさらっとしている感じで、疲れと空腹のせいもありとてもおいしかった。コーヒーも頂く。とくに見るものもなく、また山手線に乗る。
五反田で池上線に乗り換えれば、昔、一時住んでいた旗の台に行けるのだが、そこは通り過ぎ、神田で降りる。
上京してはじめて勤めた会社は、神田駅に近い、医療機器卸の会社だった。懐かしく今でも存続しているとしたら外観だけでも見てみたいとずっと思っていた。何しろ50年近く前のこと。願っていたという方が当たっているかもしれない。風の噂で、二部上場したと聞いたことがある。
駅周辺も、道路が広くなり、ビルが建ち並び、すっかり様変わり、暫く駅前から外を眺めたが混乱するばかり。
須田町や神保町まで歩いたこともあり、その反対側だったことを思い出す。そう、「北乗物町」という変わった町名だった。鍛冶町の隣だった事も思い出し、小学校が近くにあったが、小学校の名前が思い出せない。
自転車から下りて信号待ちをしていた人に、北乗物町という町名がありますか、と聞くが、聞いたことがないといわれた。町名変更されてしまったのかもしれませんね、と話した。
急にひらめくものがあり、少し方角が分かってきたので、大きな通りを渡って更に見当で歩いてみた。
小さな医療器関係の会社が幾つもあり、近くに来ていることが分かった。宅急便の会社があり、荷物の積み下ろしをしている若い人たちがいたので、手の空くのを待って、この辺に○○という会社はありませんか、と聞いてみた。
そこを右に曲がってすぐの路地を左に曲がると、あるけど、今日は休みだよ、とお兄さんは教えてくれた。礼を言って歩き出したが、路地にある会社ではない、通りに面した間口の広い店舗のはず、と首をかしげた。その名前の会社は確かにあった。
随分間口が小さくなっている。シャッターが閉まっていたが正月なので当然と納得し、歩き出すと、もう少し広い通りにぶつかったので駅の方向に曲がった。そこで見覚えのある風景に出会った。ここだ、ここに大きな店舗はあったはず、と見上げると、会社名の付いた5階建てくらいのビルが建っていた。ここを曲がったところに、社長の弟が独立した会社があるはず、と思って見ると、別名の会社がちゃんとあった。
会社は、何かの事情で縮小しビル経営に変わっているのかもしれない。50年前のことが走馬燈のように思い出された。
従業員20数人の医療機器の卸業だったが、若者が多く、活気のある店舗だった。社長の出身地、会津の若者が多く、小売店や学校、病院などへ自転車で配達。20代の女性が数人、電話受付し、合間に電話相手と冗談を言い合っていた。みんな社交的で若者も商売上手に鍛えられる。
新入事務員の私にもみんなにとても親切にして頂いたのに、2年ほどでここを辞めたのは、活気はあるが喧噪もある雰囲気になじめなかったのかも知れない。
懐かしくほろ苦い思い出の再訪だった。
帰宅したのは5時過ぎだった。家を出る時、持って行った文庫本が、小田急線と山手線で読み終わり、ラッシュの時を避ければ空調は効いているし、いい読書環境だと思った。(2008,1,2)
② 青春の日のほろ苦い思い出 =転居と転職=
上記➀で、青春時代の一部を紹介しましたが、その前後のことも書いておきたいと思います。
私が上京する時、すでに2歳半下(学年は3年下)の妹は、東京駅前の丸ビルにある「日本交通公社」に勤めていた。私の高校卒業の昭和29年は就職難で地方では就職先が少なく、銀行などは縁故採用が多かった。
高校在学中に中学校の助教諭試験というのがあり、同級生3人で受け一人だけ受かり、僻地の学校でもいいから行きたいと願ったが、4年制大学でも教職に就くのは難しい時代、と先生に諭された。終戦直前、代用教員が何人もいたが、その時代の制度だったのかもしれない。
仕方なく、M税理士事務所に勤めた。勤めながら市立短期大学を卒業した。この短大は、昼夜通し授業で、どちらの授業も受けられ、卒業成績も順位も一緒だった。この短大は2年後4年制大学に昇格した。市が経済的理由で遠い大学に通えない、地元の向学心のある学生に勉学の機会を与えようと創立したもので、教授や助教授はのちに東京の一流大学で有名になる先生が多かった。私も何人かの教授や助教授のゼミや授業を受け、素晴らしい仲間にも出会った。終生家族ぐるみでお付き合いさせて頂いた恩師もいた。
3学年下の妹は私よりずっと成績もよく、かなり難関だった日本交通公社の試験に合格した。地元では、私と同じ思いをするのが、わかっていたので、父は東京での就職を許し、板橋の父の従兄の家に同居させてほしいと頼みに行った。妹はその家で家族同様に可愛がられていたが、2年ほど過ぎたころ、娘さんが結婚して同居することになり、自分の持っているアパートの一室を妹に世話した。
父は娘の一人暮らしは心配でならず、悩んでいたので、この時とばかり、私が一緒に住みますから、東京へ行かせてください、と懇願した。兄妹が多く家業は順調ではなく,働かなければならなかった。仕事は決まっていないが、経理は決算書や申告書もできるように叩き込まれたので、すぐ見つかる、という自信があった。
恩ある雇用主の先生に事情を話し辞めさせていただきたいと頭を下げたが、なかなか認めてもらえず、この時のことを思い出すと、いまだに胸が痛む。今と違ってドライでない時代だった。
兎に角、4畳半の妹の部屋に転がりこんだ。板橋駅に近い北区滝野川というところだった。半年後、神田の会社に出入りする人が、家を増築したので、信用のできる娘さんに貸したい、というので、6畳間をお借りした。京成小岩駅に近い静かなところだった。上品な老夫婦と台所は一緒の自炊だったが、時々たけのこご飯や旬のおいしいおかずを頂いた。父母が挨拶に来てくれた。
神田の医療機器卸の会社の次に勤めたのは、日産自動車デイラーの営業所だった。五反田近くの第三京浜にあったが、「小岩」からでは遠いので、「旗の台」駅の近くに越した。社員セールスの人が、マンションに転居するので、どうかと勧められて入居した。勝手に次々に住まいを変えるので、妹からブーイングが出たが、広さと家賃など条件が悪くない。小さな台所もついている。が、日当たりが悪く、ここも1年足らずで引っ越した。
最後は池上線の蓮沼駅〈蒲田の手前〉近くの、新築のこじんまりした2階の部屋を借りた。ここはきれいだし日当たりがよく休日、布団も干せるので、妹も気にいった。
ここに住んでいる時、ケネディ大統領の暗殺のニュース映像が流れた。大ショックだった。確か休日で、出かける準備をしている時だった。心に穴が開いたような気持だった。
自動車販売会社の営業所では、内務すべてを担当した。所長、課長、係長、と平社員数名で基本的には本社で稟議書や信用調査書、納車時の割賦販売の時の契約書や支払明細書や回数に応じた手形は本社で作成したが、急ぐ客には、セールスマンに頭を下げられて営業所で作った。元利均等計算なども覚えた。その上で手形決済のため、チェックライターを何枚も打った。今ならローン手続で済んだはず。
私はどうしても運転免許がとりたくて、休日や夜、教習所に通い免許をとったので、昼休みに下の修理工場の片隅で下取り車に乗せてもらい、狭いところでのバックや幅寄せ、車庫入れなど練習した。時折、セールスマンやサービスマンが的確なアドバイスをしてくれた。
本社の業務連絡にも、男性に頼らず自分で運転して行くようになった。美智子妃殿下の生家の池田山近くを通ったりした。
2年後には、全労系の組合に婦人部ができ、婦人部副部長を仰せつかった。メーデーにも参加した。女子社員の親睦を兼ねて奥多摩へのキャンプや日比谷公園・松本楼でテーブルマナーの勉強もした。
免許を取った年の年末、中古車を借り、妹と帰省した。我ながら度胸があったと思う。休日、父母が上京した時は、中古車を借りて、江ノ島まで4人でドライブした。この時のことを、妹は、江ノ島でなく日光だと言い張るが、私は、日光に行った覚えも、いろは坂を車で登る自信もない。
後輩もでき、補助的な仕事を手伝ってもらったが、来客へのお茶入れは拒否された。なぜ、私がしなければいけないのですか、と言われ唖然とした。それまで、私が新車の展示ルームや来客の応接室、隣の事務室で上司や課員にもお茶入れを当然としてやってきた。
助け合ってやりましょうと説得したのだが、時代も変わりつつあった。
車に乗りたくて、夜の納車の時、セールスの人達の納車を手伝うこともあった。もちろん、新車には乗せてもらえない。納車に2台で行くのだった。セールスの人達は仲間同士で協力し合っていた。
彼らは、よく横浜中華街に繰り出した。たまに、よく協力してくれるというので、私や内務の人達にも御馳走してくれるのだった。時にバーやナイトクラブも誘われた。
しかし、残業も多く帰宅も遅くなると、妹の目も気になり、私自身も本来、気が小さく真面目な性格ゆえ、こんな生活はよくない、と感じ始めた。
③ 第三の職場で
またも、転職を考えた。信頼する人が、日本一のヘリコプター会社を紹介しくれた。面接のとき、「当社に私を推薦する」という作文を書かされた。26歳になっていたが、年齢のハンデはやる気でカバーする、と書き、若くても結婚退社の確率は同じ、私は仕事への情熱をアッピールした。
採用された私の仕事は、運航課であった。この会社は、西武の堤清二氏が社長で、本社は日本橋だが、運航課は西武デパート内にあった。デパートの社員割引も利用できた。
ここでも、今までしたことのない経験をした。所沢のヘリポートへ書類を持って行ったとき、運航課にいて、まだヘリコプターに乗ってないのかと聞かれ、3・4分乗せて頂いたのだった。
もう一つの経験は、ブログ日記に書いているので転記します。
プロジェクトX (富士山レーダーの建設)
《NHKの「プロジェクトX」は好きな番組だった。放送終了になってしまってとても残念だ。昨年放送された中で、印象の強いものが2つあった。一つは、富士山に気象用ポラボラアンテナを建設するというもの。
私はそのヘリコプター会社に勤めていた。運航課だったので、大手町の運輸省や羽田の航空保安事務所に飛行の許可の申請書を出す仕事をしていた。
運航課にはパイロットがいつも出入りしていた。飛行機を固定翼、ヘリコプターを回転翼といい彼らはどちらも操縦できるベテランだった。軍隊で飛行兵だったのかも知れない。皆自信家に思えた。ヘリは70機以上あった。ベルとシコルスキーという2種類あった。
ヘリコプターの目的は、写真撮影、ニュース取材、人命救助、物資輸送、薬剤散布、地図作製、遊覧飛行などがあった。
その頃、計画はずっと前からだと思うが、富士山にパラボラアンテナを建てるという話が広がった。社内あげてのビッグニュースだった。機長は大ベテランの神田さんという人だった。
富士山頂の気象は激しい。強風が吹き荒れる。下から巻き上がる風もある。球形のアンテナの上半分を下にかぶせる。命がけの仕事だったということは「プロジェクトX」で知った。
勿論、中心になった人たちは、他の会社でも大勢いた。台風の進路、大きさなど予測し少しでも被害を少なくするためにレーダーは絶対必要なものだった。
神田機長は完成したとき、上司に詳しい状況など報告していたが、私たちOLが賞讃すると、ううん、たいしたことないのよ、と女言葉で冗談を言っていた。
その神田さんがプロジェクトの一員として番組に出ていられた。懐かしかった。40数年たっているのに若々しく堂々とした風格は変わっていなかった。
そのレーダーも気象衛星が打ち上げられ役割を終えた。》(2006.1.16 記)
以下は蛇足ですが・・
その後、このブログ日記を読んだ、Yさんという方から、私は、商事会社の航空機部門に勤め、ヘリコプターや器材、ヘルメットまで納入した者です。神田さんは特注のヘルメットでないと頭が大きく入らなかった。
私にとっても当時は懐かしい。今は、ドクターヘリの仕事でドイツや各国へ行きます、というメッセージを頂いた。その後、ドクターヘリについての番組で私の退社後に社長になられた方でYさんとドクターヘリの仕事を一緒になさっている方がNHKテレビに出演されているのを拝見した。
ところで、私は2年でこの会社を辞めた。親友のご主人が世話してくれた人と結婚した。東京オリンピックの開会式の日、式場は新宿の厚生年金会館であったが結婚式どころではなく、ロビーでテレビの中継を見ていた参列者に開始を呼びかけたのだった。
不真面目で不謹慎のようだが、当時としては晩婚で一度結婚しないと周りがうるさいから、というのも無きにしも非ずだった。相手もそうだったようだ。周りがうるさかったと。
考えようによっては、こんな、取り柄のない理窟屋の娘を貰って下さったことを感謝しなければ、とも思う。
職場の人達からは、平塚からなら通えるだろう。辞めないで頑張ったら、と言われたが、とてもそんなことは相手に言えなかったし、両立などできるはずはないと思っていた。
歌に、青春時代は、道に迷っているばかり、というが、その通りと思います。
(2013,10,13)
そこで、代わりと言ってはおかしいのですが、先日ある冊子に書いたものを、恥を忍んで、転載します。自分史の一部であり、冥途のみやげ、といったところです。
私の青春時代
① 青春の日を訪ねて
数年前の1月2日。正月早々なのに予定もなく、みんな出掛けたので、私も気晴らしに出掛けることにした。
ずっと考えていた、東京の思い出の地を訪ねてみようと思い立った。伊勢原駅でスイカを3000円分チャージ、残金があったので6千円近くになった。
行き先が箱根とか鎌倉とか横浜とかいくつか浮かんだが、最初の予定通り、新宿に向かう。
目的地に行く前に、街のお正月風景を見ようと新宿の明治通りと靖国通りを歩いた。お正月早々人出の多いのに驚く。デパートも福袋の売り出しで大賑わい。5千円、1万円ともっと高いものもあり5万円分の商品が入っていて5千円!と大声で宣伝しており、ちょっと誘惑に駆られそうになる。
昼食は、中村屋のインドカレーでも食べようかと入るが、2階のレストラン入り口から3階まで並んでおり、30分待ちというのでやめた。歩数計を付けており、すでに1万歩を越えていた。
山手線に乗り恵比寿で降りた。駅前の空き地が整備され(何年か前?)きれいな駅ビルになっている。恵比寿ガーデンという素敵なショッピング街にも足を向けたが目的地でないので、Uターンした。
駅ビルの5階のレストラン街で食事することにし、何にしようか迷ったが、ここにも中村屋の支店があり空いていたので、インドカレーを頂く。チキンカレーでさらっとしている感じで、疲れと空腹のせいもありとてもおいしかった。コーヒーも頂く。とくに見るものもなく、また山手線に乗る。
五反田で池上線に乗り換えれば、昔、一時住んでいた旗の台に行けるのだが、そこは通り過ぎ、神田で降りる。
上京してはじめて勤めた会社は、神田駅に近い、医療機器卸の会社だった。懐かしく今でも存続しているとしたら外観だけでも見てみたいとずっと思っていた。何しろ50年近く前のこと。願っていたという方が当たっているかもしれない。風の噂で、二部上場したと聞いたことがある。
駅周辺も、道路が広くなり、ビルが建ち並び、すっかり様変わり、暫く駅前から外を眺めたが混乱するばかり。
須田町や神保町まで歩いたこともあり、その反対側だったことを思い出す。そう、「北乗物町」という変わった町名だった。鍛冶町の隣だった事も思い出し、小学校が近くにあったが、小学校の名前が思い出せない。
自転車から下りて信号待ちをしていた人に、北乗物町という町名がありますか、と聞くが、聞いたことがないといわれた。町名変更されてしまったのかもしれませんね、と話した。
急にひらめくものがあり、少し方角が分かってきたので、大きな通りを渡って更に見当で歩いてみた。
小さな医療器関係の会社が幾つもあり、近くに来ていることが分かった。宅急便の会社があり、荷物の積み下ろしをしている若い人たちがいたので、手の空くのを待って、この辺に○○という会社はありませんか、と聞いてみた。
そこを右に曲がってすぐの路地を左に曲がると、あるけど、今日は休みだよ、とお兄さんは教えてくれた。礼を言って歩き出したが、路地にある会社ではない、通りに面した間口の広い店舗のはず、と首をかしげた。その名前の会社は確かにあった。
随分間口が小さくなっている。シャッターが閉まっていたが正月なので当然と納得し、歩き出すと、もう少し広い通りにぶつかったので駅の方向に曲がった。そこで見覚えのある風景に出会った。ここだ、ここに大きな店舗はあったはず、と見上げると、会社名の付いた5階建てくらいのビルが建っていた。ここを曲がったところに、社長の弟が独立した会社があるはず、と思って見ると、別名の会社がちゃんとあった。
会社は、何かの事情で縮小しビル経営に変わっているのかもしれない。50年前のことが走馬燈のように思い出された。
従業員20数人の医療機器の卸業だったが、若者が多く、活気のある店舗だった。社長の出身地、会津の若者が多く、小売店や学校、病院などへ自転車で配達。20代の女性が数人、電話受付し、合間に電話相手と冗談を言い合っていた。みんな社交的で若者も商売上手に鍛えられる。
新入事務員の私にもみんなにとても親切にして頂いたのに、2年ほどでここを辞めたのは、活気はあるが喧噪もある雰囲気になじめなかったのかも知れない。
懐かしくほろ苦い思い出の再訪だった。
帰宅したのは5時過ぎだった。家を出る時、持って行った文庫本が、小田急線と山手線で読み終わり、ラッシュの時を避ければ空調は効いているし、いい読書環境だと思った。(2008,1,2)
② 青春の日のほろ苦い思い出 =転居と転職=
上記➀で、青春時代の一部を紹介しましたが、その前後のことも書いておきたいと思います。
私が上京する時、すでに2歳半下(学年は3年下)の妹は、東京駅前の丸ビルにある「日本交通公社」に勤めていた。私の高校卒業の昭和29年は就職難で地方では就職先が少なく、銀行などは縁故採用が多かった。
高校在学中に中学校の助教諭試験というのがあり、同級生3人で受け一人だけ受かり、僻地の学校でもいいから行きたいと願ったが、4年制大学でも教職に就くのは難しい時代、と先生に諭された。終戦直前、代用教員が何人もいたが、その時代の制度だったのかもしれない。
仕方なく、M税理士事務所に勤めた。勤めながら市立短期大学を卒業した。この短大は、昼夜通し授業で、どちらの授業も受けられ、卒業成績も順位も一緒だった。この短大は2年後4年制大学に昇格した。市が経済的理由で遠い大学に通えない、地元の向学心のある学生に勉学の機会を与えようと創立したもので、教授や助教授はのちに東京の一流大学で有名になる先生が多かった。私も何人かの教授や助教授のゼミや授業を受け、素晴らしい仲間にも出会った。終生家族ぐるみでお付き合いさせて頂いた恩師もいた。
3学年下の妹は私よりずっと成績もよく、かなり難関だった日本交通公社の試験に合格した。地元では、私と同じ思いをするのが、わかっていたので、父は東京での就職を許し、板橋の父の従兄の家に同居させてほしいと頼みに行った。妹はその家で家族同様に可愛がられていたが、2年ほど過ぎたころ、娘さんが結婚して同居することになり、自分の持っているアパートの一室を妹に世話した。
父は娘の一人暮らしは心配でならず、悩んでいたので、この時とばかり、私が一緒に住みますから、東京へ行かせてください、と懇願した。兄妹が多く家業は順調ではなく,働かなければならなかった。仕事は決まっていないが、経理は決算書や申告書もできるように叩き込まれたので、すぐ見つかる、という自信があった。
恩ある雇用主の先生に事情を話し辞めさせていただきたいと頭を下げたが、なかなか認めてもらえず、この時のことを思い出すと、いまだに胸が痛む。今と違ってドライでない時代だった。
兎に角、4畳半の妹の部屋に転がりこんだ。板橋駅に近い北区滝野川というところだった。半年後、神田の会社に出入りする人が、家を増築したので、信用のできる娘さんに貸したい、というので、6畳間をお借りした。京成小岩駅に近い静かなところだった。上品な老夫婦と台所は一緒の自炊だったが、時々たけのこご飯や旬のおいしいおかずを頂いた。父母が挨拶に来てくれた。
神田の医療機器卸の会社の次に勤めたのは、日産自動車デイラーの営業所だった。五反田近くの第三京浜にあったが、「小岩」からでは遠いので、「旗の台」駅の近くに越した。社員セールスの人が、マンションに転居するので、どうかと勧められて入居した。勝手に次々に住まいを変えるので、妹からブーイングが出たが、広さと家賃など条件が悪くない。小さな台所もついている。が、日当たりが悪く、ここも1年足らずで引っ越した。
最後は池上線の蓮沼駅〈蒲田の手前〉近くの、新築のこじんまりした2階の部屋を借りた。ここはきれいだし日当たりがよく休日、布団も干せるので、妹も気にいった。
ここに住んでいる時、ケネディ大統領の暗殺のニュース映像が流れた。大ショックだった。確か休日で、出かける準備をしている時だった。心に穴が開いたような気持だった。
自動車販売会社の営業所では、内務すべてを担当した。所長、課長、係長、と平社員数名で基本的には本社で稟議書や信用調査書、納車時の割賦販売の時の契約書や支払明細書や回数に応じた手形は本社で作成したが、急ぐ客には、セールスマンに頭を下げられて営業所で作った。元利均等計算なども覚えた。その上で手形決済のため、チェックライターを何枚も打った。今ならローン手続で済んだはず。
私はどうしても運転免許がとりたくて、休日や夜、教習所に通い免許をとったので、昼休みに下の修理工場の片隅で下取り車に乗せてもらい、狭いところでのバックや幅寄せ、車庫入れなど練習した。時折、セールスマンやサービスマンが的確なアドバイスをしてくれた。
本社の業務連絡にも、男性に頼らず自分で運転して行くようになった。美智子妃殿下の生家の池田山近くを通ったりした。
2年後には、全労系の組合に婦人部ができ、婦人部副部長を仰せつかった。メーデーにも参加した。女子社員の親睦を兼ねて奥多摩へのキャンプや日比谷公園・松本楼でテーブルマナーの勉強もした。
免許を取った年の年末、中古車を借り、妹と帰省した。我ながら度胸があったと思う。休日、父母が上京した時は、中古車を借りて、江ノ島まで4人でドライブした。この時のことを、妹は、江ノ島でなく日光だと言い張るが、私は、日光に行った覚えも、いろは坂を車で登る自信もない。
後輩もでき、補助的な仕事を手伝ってもらったが、来客へのお茶入れは拒否された。なぜ、私がしなければいけないのですか、と言われ唖然とした。それまで、私が新車の展示ルームや来客の応接室、隣の事務室で上司や課員にもお茶入れを当然としてやってきた。
助け合ってやりましょうと説得したのだが、時代も変わりつつあった。
車に乗りたくて、夜の納車の時、セールスの人達の納車を手伝うこともあった。もちろん、新車には乗せてもらえない。納車に2台で行くのだった。セールスの人達は仲間同士で協力し合っていた。
彼らは、よく横浜中華街に繰り出した。たまに、よく協力してくれるというので、私や内務の人達にも御馳走してくれるのだった。時にバーやナイトクラブも誘われた。
しかし、残業も多く帰宅も遅くなると、妹の目も気になり、私自身も本来、気が小さく真面目な性格ゆえ、こんな生活はよくない、と感じ始めた。
③ 第三の職場で
またも、転職を考えた。信頼する人が、日本一のヘリコプター会社を紹介しくれた。面接のとき、「当社に私を推薦する」という作文を書かされた。26歳になっていたが、年齢のハンデはやる気でカバーする、と書き、若くても結婚退社の確率は同じ、私は仕事への情熱をアッピールした。
採用された私の仕事は、運航課であった。この会社は、西武の堤清二氏が社長で、本社は日本橋だが、運航課は西武デパート内にあった。デパートの社員割引も利用できた。
ここでも、今までしたことのない経験をした。所沢のヘリポートへ書類を持って行ったとき、運航課にいて、まだヘリコプターに乗ってないのかと聞かれ、3・4分乗せて頂いたのだった。
もう一つの経験は、ブログ日記に書いているので転記します。
プロジェクトX (富士山レーダーの建設)
《NHKの「プロジェクトX」は好きな番組だった。放送終了になってしまってとても残念だ。昨年放送された中で、印象の強いものが2つあった。一つは、富士山に気象用ポラボラアンテナを建設するというもの。
私はそのヘリコプター会社に勤めていた。運航課だったので、大手町の運輸省や羽田の航空保安事務所に飛行の許可の申請書を出す仕事をしていた。
運航課にはパイロットがいつも出入りしていた。飛行機を固定翼、ヘリコプターを回転翼といい彼らはどちらも操縦できるベテランだった。軍隊で飛行兵だったのかも知れない。皆自信家に思えた。ヘリは70機以上あった。ベルとシコルスキーという2種類あった。
ヘリコプターの目的は、写真撮影、ニュース取材、人命救助、物資輸送、薬剤散布、地図作製、遊覧飛行などがあった。
その頃、計画はずっと前からだと思うが、富士山にパラボラアンテナを建てるという話が広がった。社内あげてのビッグニュースだった。機長は大ベテランの神田さんという人だった。
富士山頂の気象は激しい。強風が吹き荒れる。下から巻き上がる風もある。球形のアンテナの上半分を下にかぶせる。命がけの仕事だったということは「プロジェクトX」で知った。
勿論、中心になった人たちは、他の会社でも大勢いた。台風の進路、大きさなど予測し少しでも被害を少なくするためにレーダーは絶対必要なものだった。
神田機長は完成したとき、上司に詳しい状況など報告していたが、私たちOLが賞讃すると、ううん、たいしたことないのよ、と女言葉で冗談を言っていた。
その神田さんがプロジェクトの一員として番組に出ていられた。懐かしかった。40数年たっているのに若々しく堂々とした風格は変わっていなかった。
そのレーダーも気象衛星が打ち上げられ役割を終えた。》(2006.1.16 記)
以下は蛇足ですが・・
その後、このブログ日記を読んだ、Yさんという方から、私は、商事会社の航空機部門に勤め、ヘリコプターや器材、ヘルメットまで納入した者です。神田さんは特注のヘルメットでないと頭が大きく入らなかった。
私にとっても当時は懐かしい。今は、ドクターヘリの仕事でドイツや各国へ行きます、というメッセージを頂いた。その後、ドクターヘリについての番組で私の退社後に社長になられた方でYさんとドクターヘリの仕事を一緒になさっている方がNHKテレビに出演されているのを拝見した。
ところで、私は2年でこの会社を辞めた。親友のご主人が世話してくれた人と結婚した。東京オリンピックの開会式の日、式場は新宿の厚生年金会館であったが結婚式どころではなく、ロビーでテレビの中継を見ていた参列者に開始を呼びかけたのだった。
不真面目で不謹慎のようだが、当時としては晩婚で一度結婚しないと周りがうるさいから、というのも無きにしも非ずだった。相手もそうだったようだ。周りがうるさかったと。
考えようによっては、こんな、取り柄のない理窟屋の娘を貰って下さったことを感謝しなければ、とも思う。
職場の人達からは、平塚からなら通えるだろう。辞めないで頑張ったら、と言われたが、とてもそんなことは相手に言えなかったし、両立などできるはずはないと思っていた。
歌に、青春時代は、道に迷っているばかり、というが、その通りと思います。
(2013,10,13)
by ttfuji
| 2013-11-26 23:52
| 家族・身内・私