2017年 07月 31日
郷土史研究会の記録 幕末の大山を見た不動明王 |
7月8日(土)
本日の講演は「幕末の大山を見た不動明王』。講師は当会顧問の田中米昭氏。
擬人的なちょっと変わった題名だが、当市の大山は万葉の昔から神仏が祀られ、山容は穏やかで人々の信仰心や心の拠り所になってきた。
頂いた資料は内容が詳細で広範で、概要をまとめるのはむずかしく、一部をそのまま記載させて頂くことにする。
歴史的には万葉の古歌から『大山寺縁起』の天平勝宝7年に、東大寺初代別当の良弁僧正が大山に入って大山寺を開創、聖武天皇は大山寺を国家安穏祈願の勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を寺院経営に充当したと伝えられる。
その後、元慶2年の大地震による倒壊焼失があり、天台宗の安然により再建された。
その一方で阿夫利神社は相模十三座の一座として延喜式神名帳に記載されており、古来からのお山信仰、山頂の巨石信仰(石尊信仰)などがあって、日本固有の神祇信仰と異国の仏教などが習合をし、さらに武力の錬磨・霊力を得る修業など混然一体となっている状況ではなかったかと思われる。
文永のころ東寺五重塔再建の勧進活動のため鎌倉に来ていた願行坊憲静によって荒廃していた大山寺は再建され、鉄造不動明王も鋳造された。
長い引用文の前置きになったが、不動明王がその後の大山の宗教の変遷を見てきたわけが分かってくるように思う。大山寺にあった不動明王が、ふもとの大竹村光明院に移されたという、経緯を田中氏は、古文書や多くの資料から読み解かれた。
江戸時代、徳川家康によって行われた、大山宗教の大改革、「清僧25口以外は山を下りる」次に明治の神仏分離令による廃仏毀釈で大山寺は「宝珠山明王寺」と改称され、明治6年、阿夫利神社へ権田直助の祠官就任があり、ほぼ明治時代を費やして大山の神仏分離は確立した。
大山寺にあった不動明王が、いつどういう経緯で光明院に移されたかは明らかではないようだが、廃仏毀釈の難を逃れて関係者や信者などが寄進しあって守ったのであろう。2002年に仏像調査が行われ胎内物が発見された。2010年頃に資料が寺の役員に公開された。
胎内から発見された文書と祈りを込めた内容物は珍しいものだが文書の内容は、
『士農巧商之助力を以て不動明王の尊容を造顕する請之状』と題した文書は現代でいう趣意書と考えられる。趣意書の大意、造顕の目的、趣意書に応じた施主の名前が記されている。貴賤男女を問わず、少しでもいいからと寄進を募っている。53名、男38名、女12名、分明でないもの、3名。
名前だけの記名も多い。関係者として僧侶、寺の従事者、仏師、等も記されている。
本日の講演は「幕末の大山を見た不動明王』。講師は当会顧問の田中米昭氏。
擬人的なちょっと変わった題名だが、当市の大山は万葉の昔から神仏が祀られ、山容は穏やかで人々の信仰心や心の拠り所になってきた。
頂いた資料は内容が詳細で広範で、概要をまとめるのはむずかしく、一部をそのまま記載させて頂くことにする。
歴史的には万葉の古歌から『大山寺縁起』の天平勝宝7年に、東大寺初代別当の良弁僧正が大山に入って大山寺を開創、聖武天皇は大山寺を国家安穏祈願の勅願寺とし、相模・安房・上総三国の租税の一部を寺院経営に充当したと伝えられる。
その後、元慶2年の大地震による倒壊焼失があり、天台宗の安然により再建された。
その一方で阿夫利神社は相模十三座の一座として延喜式神名帳に記載されており、古来からのお山信仰、山頂の巨石信仰(石尊信仰)などがあって、日本固有の神祇信仰と異国の仏教などが習合をし、さらに武力の錬磨・霊力を得る修業など混然一体となっている状況ではなかったかと思われる。
文永のころ東寺五重塔再建の勧進活動のため鎌倉に来ていた願行坊憲静によって荒廃していた大山寺は再建され、鉄造不動明王も鋳造された。
長い引用文の前置きになったが、不動明王がその後の大山の宗教の変遷を見てきたわけが分かってくるように思う。大山寺にあった不動明王が、ふもとの大竹村光明院に移されたという、経緯を田中氏は、古文書や多くの資料から読み解かれた。
江戸時代、徳川家康によって行われた、大山宗教の大改革、「清僧25口以外は山を下りる」次に明治の神仏分離令による廃仏毀釈で大山寺は「宝珠山明王寺」と改称され、明治6年、阿夫利神社へ権田直助の祠官就任があり、ほぼ明治時代を費やして大山の神仏分離は確立した。
大山寺にあった不動明王が、いつどういう経緯で光明院に移されたかは明らかではないようだが、廃仏毀釈の難を逃れて関係者や信者などが寄進しあって守ったのであろう。2002年に仏像調査が行われ胎内物が発見された。2010年頃に資料が寺の役員に公開された。
胎内から発見された文書と祈りを込めた内容物は珍しいものだが文書の内容は、
『士農巧商之助力を以て不動明王の尊容を造顕する請之状』と題した文書は現代でいう趣意書と考えられる。趣意書の大意、造顕の目的、趣意書に応じた施主の名前が記されている。貴賤男女を問わず、少しでもいいからと寄進を募っている。53名、男38名、女12名、分明でないもの、3名。
名前だけの記名も多い。関係者として僧侶、寺の従事者、仏師、等も記されている。
by ttfuji
| 2017-07-31 21:18
| 郷土史・講演会・学習