私の生活や自分史・読書、旅などの記録


by ttfuji(トコ)

「高麗王・若光について」  歴史研究家・小松さんの論文より

 先日、聖徳太子の講演をして下さった、小松さんから、高麗王・若光のことをまとめた論文が載った、冊子のコピーが送られてきた。これは、会社のOB会の会誌に寄せられたものだった。読ませていただき、その研究姿勢の真面目さ、丁寧さにまたしても、感嘆した。
 
 7世紀、天智朝の頃、 高句麗は、戦乱の半島から使者を送ってきた。唐と新羅の連合国に百済が滅ばされ、今度は高句麗も滅ばされようとしており、大和朝廷に軍隊の派遣を求めてきた。その時の使者の副官が玄武若光であった。しかし、ヤマト朝廷は、百済の時に、数万の支援軍を送ったが、唐の力の前に、海の藻屑と化したため、彼らの要請を、受け入れる状態ではなかった。使者達は、母国の帰って行ったが、玄武若光を、大和に残留させた。高句麗は、滅亡し、若光は帰国の道を失った。 多くの難民が海を越えてやって来た。若光は、それらの人々の受け入れや定住先の斡旋などに、奔走することになる。3年後、頼っていた天智天皇が、崩御。続いて、壬申の乱が起き、替わった天武天皇は、朝鮮半島への軍事介入策を捨てる。
 多くの帰化した知識人が、中立策のヤマト朝廷で活躍した。若光は王(コシキ)の姓を賜り(日本書紀・続日本紀)、高麗王・若光と名乗るようになる。・・・
 
 このまま、小松さんの、研究論文を要約抜粋して載せて、いいものだろうか。迷ったが しかし、私は、どうしても紹介したい。

 それは、関東周辺にある、高麗神社が、「若光」を祀っているからである。
私の市の隣町、大磯には、高来(タカク)神社がある。高麗神社ともいわれている。こうらいじ山もある。
 以前、古典の会の下調べで、先生、役員で行ったことがある。その時、宮司さんから、若光の名前を聞いたことを思い出した。
 若光は、ヤマト朝廷の、密命を受けて、相模湾から、この地に上陸。多くの帰化人と共に、開拓や東国の情報を入手することなどもあったようだ。若光がこの地を去ると、土地の人達がその徳を慕って、相模湾を見下ろす山頂に、上宮を建て、山麓に下宮を建てた。高麗神社は、その後も、多くの高麗人が移り住んだところ(武蔵の国ほか)に建てられている。
 なお、小松さんの研究では、若光と国府との関係、「高麗」の建郡についても書かれているが割愛する。
 
 若光に王の姓を与えたのは、難民の上に適当な指導者を据え、それによって新たな土地への再移動させるためではなかったか。若光は難民達を再収容する適地を求めて板東諸国を旅する日々であったろう。
 移住民にとって人跡のない原野であり、生活は困窮を極めたものであったろうとも、記していられます。
 高麗神社を詣でるとき、若光王のことを思い浮かべたいと思う。
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Commented by すみれさん at 2006-06-12 09:14 x
日高市にある高麗神社に参ったことがありました。
久々に会う友人との約束の日でしたが、それもよりによって、台風到来の当日。お互いに「物好きネ」苦笑いでした。由緒来歴などは眺めただけ。記憶にも残っておりませなんだ。「これはもう一度、出直しておいでということなのかもしれないわ。もっと勉強おいでって」。
今回学習できましたので、詣でる資格ができたようです。
ありがとうございました。
Commented by ttfuji at 2006-06-12 22:49
すみれさん
小松さんが、高麗神社のことを書くきっかけは、埼玉県、日高市の高麗神社の宮司の旧宅(重要文化財)と梅園を訪ねたのが縁でした。研究書の題名は、「高麗家の梅」というものです。そこから、研究の範囲が広がっていったことがわかりましたが、私の抜粋から抜け落ちました。
by ttfuji | 2006-06-11 15:30 | 郷土史・講演会・学習 | Comments(2)