私の生活や自分史・読書、旅などの記録


by ttfuji(トコ)

今年最後の郷土史研究会

 定例会に出席のため8時半に家を出る。TさんとYさんを迎えに行くが,Yさんは腰を痛めて欠席だった。9時半開始だが役員なので9時に会場の中央公民館に着く。
 
 今日の講演は、
「黒船来航と海防 明王太郎の行動」
というものだった。
講師は手中正先生。手中氏は、明王太郎(みょうたろう)の子孫である。明王太郎は伊勢原大山の宮大工であるが、嘉永6年~7年というエポック的な時代に何があったか、何をしたか、ということについて話された。嘉永6年、7年は鎖国から開国へ大きく動いた年である。
 嘉永6年6月にペリーは4艘の黒船を率いて浦賀沖に来航。大統領の親書を持って開国を迫った。ペリーもすぐに条約が締結できるとは思わず、翌年春に再来航する旨伝えて、一旦香港に戻る。
 幕府では、諸大名に意見を求め、一般庶民からも意見を聞いた。大名や武士の間でも意見は割れ、尊皇攘夷派や開国論者で国内も騒然となった。
 すでに、清国では16年前にアヘン戦争で香港はイギリスに割譲されていた。清国の二の舞になってはならぬ、と町人からも良案を求めたのである。

 宮大工である明王太郎は海防の必要を考え、黒船を迎え撃つべく木造の大型軍船を設計した。設計図は細部に亘り、規模、作り方や必要材料の量なども書かれているほか、樫の木材を使った大砲の装置やアサ、ツタ、モチノリ、ジョウツチを固め牛革で巻いた砲丸なども考案した。歯車を幾つも組み合わせての動力も描かれている。
 こうした文書や図面は手中明王太郎の自信の作のだったことが読み取れる。お上に提出、吟味されることになったようだが、採用はされなかった。
 それというのも、軍事的にものを言わせようと9艘の艦隊で再来航したペリーは江戸城に向かって、威嚇の空砲(礼砲といっているが)で幕府を懼れさせ、日米和親条約を締結させた。海難船の救助や水や食料の補給など受け入れたが、通商条約だけは拒否した。
 アメリカは、下田に領事館を置き、ハリスを駐在させ時間をかけて江戸と交渉し通商条約も締結する。その後、外国船を自由に買うことができるようになり薩摩や長州では外国から軍艦を手に入れた。

 黒船来航で右往左往した時代に、幕府の求めに応じ、真剣に木造船で海防を考え、対抗しようとした大工がわが伊勢原にもいたのである。明王太郎の記録は日記や設計図や説明書が古文書として残されている。

 講演会終了後、いつもの仲間と近くのファミレスで食事して帰る。
[PR]
by ttfuji | 2007-12-08 20:52 | 郷土史・講演会・学習 | Comments(0)