私の生活や自分史・読書、旅などの記録


by ttfuji(トコ)

<   2009年 07月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 不順な天気が続いているが、今日は久しぶりに晴れて、洗濯物、寝具類を干した。気温も上がり、炎暑の中、とても出かける気になれない。今まで蒸し暑さに閉口していたが、かっと暑いのも楽ではない。昔から、夏に弱く、陸に上がった河童状態になる。しかし、これで夏本番と思ったら、まだまだ異常気象は続くらしい。

 昨日は、図書館に行ってきた。本来は、隔週の木曜日が返却日だが、木曜日は娘が車を使いたいというので、Tさんの都合も聞いて一日繰り上げて昨日行ってきた。
 この頃読了しないまま返却してしまうことが多い。継続しようか迷いながらそのまま返却、返却棚や書架からメモしてある本を探す。見つからないから係の窓口で調べてもらおうかと思っても、待っている人がいると、面倒になって別な本を借りてきたりする。
 図書館のギャラリーでは、絵手紙展をやっていた。ハガキや半紙だけでなく、うちわや扇子、布の壁掛けなども。 絵とひと言の添え書きが素晴らしい。感心して眺めていると、何度も誘われるが、絵も文字も、気の利いたひと言も書ける才能がない。ここで、スイミングで一緒のikuineさんにお会いした。スイミングでお会いしたときのイメージと大分違っていて、オシャレな佇まいにすぐに思い出せなかった。

 Tさんから、都合を聞かれ、あとの予定はないというと、中央公民館で、「五人展」をやっている。先日さっと見たが、とても良かった。あなたが行くならもう一度じっくり見たい、という。
 絵(水彩画・油絵・アクリル画)やイラスト、写真、陶芸、落ち葉や自然の植物を使った貼り絵など、どれもプロ級の人の作品だった。イラストでは鳥獣戯画風の、擬人化した犬の様々なポーズは、つい笑ってしまうおかしみがあった。101匹ワンちゃん大行進風なのもあった。演説している犬と、聞いているイヌたち、手品をしているイヌ、絵書きのイヌと、批評しているイヌたち。ちょうどこの作家が居合わせ絵の前で話を聞きながら鑑賞できた。私より少し若いと思われる女性だった。
 今日が最終日だったので、教えて頂いて良かった。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-30 15:45 | 美術鑑賞 | Comments(0)

読書 剣岳<点の記>

 おなじみ新田次郎の山岳小説です。
 『強力伝』(直木賞を受賞)、『八甲田山死の彷徨』など読んでいます。

 『剣岳<点の記>』が映画化し、話題になっている。映画も見たいと思っているが、近くでは上映してない。(あるいはもう上映済みなのか)
 この本は、i&iさんにお借りして読んだ。昨日、太極拳の折、お返ししようと持参したが、Iさんはお休みだった。それなら、返す前に、読書録を書いてしまおうと思い書き出したら長々と、またもやあらすじになってしまった。
 
 【≪点の記≫とは三角点設定の記録である。一等三角点の記、二等三角点の記、三等三角点の記、の三種類がある。三角点標石埋定の年月日及び人名、てん標(測量用やぐら)建設の年月日及び人名、測量観測の年月日及び人名の他、その三角点に至る道順、人夫賃、宿泊設備、飲料水等の必要事項を集録したものであり、明治二十一年以来の記録は永久保存資料として国土地理院に保管されている。
 なお、一般的に点の記というと三角点についての記録であるが、多角点、水準点、磁気点等の測量標にも点の記が残されている。】
 本文に入る前の上記の説明があり、内容への理解が深まった。
 
 柴崎芳太郎は、陸地測量部、三角科の測量士である。山形県出身。志願して軍隊に入り下士官になるが、除隊して陸地測量部修技所を受験。難関を突破した。任官して三年だが、有能な測量士として認められていた。測量部の仕事は、地図を作ることが本分である。半年ぶりに、陸地測量部に帰ってきて、直属の上司玉井大尉に挨拶すると、君の帰ってくるのを科長が待っている、と伝えた。玉井大尉と、科長の樋口大佐のところへ行くと、そのまま、部長室へ行こう、と歩き出した。武官が取り次いだ、測量部部長は、陸軍少将大久保徳明ある。三人は陸軍少将の前に立たされた。
 柴崎は、判任官待遇の文官である。軍隊の階級に換算すると軍曹ぐらいに当たる。緊張している柴崎に、長々とスイスのマッターホルンの話などしたあと、5日ほど前、陸地測量部に対して、創設間もない山岳会から、中部山岳地方の5万分に1の地図を公開するように、正式要請文書があった。
 山岳会ばかりでなく、一般からも要請は多いので、公開をするつもりはあるが、従来の地図は、山の名前があっても、高さの記入がないものが多いし、誤りも多い。陸軍省としては、測量の完了を待って早急に一般公開するつもりであるが、それにはまず測量を終わらせることである。先程、山岳会の小島烏水というものがきて、越中剣岳に登る予定があるので、そのために正確な地図が必要だといってきた。今まで、わが測量部は、多くの犠牲を払って、未踏の山々の頂きに三角点を設けてきた。山岳会ごときに先を越されてはならない。わが測量部の恥だ。君には、暫く休んだら、剣岳へ下見に行ってもらいたい。君には来年、剣岳を中心とした5万分の1の地図の最後の固めとしての三等三角網完成の仕事をやってもらう。当然のことながら剣岳に登ってもらわなければならない。という至上命令が下った。

 自宅には、新婚の妻が待っている。結婚して2ヵ月で、半年間の出張。帰ってわずか1週間で、富山へ10日間の下見出張。
 軍隊の、民間に先に越されてはならないという、面子のために、剣岳踏破の過酷な挑戦が始まった。勿論、柴崎自身も、何としても自分の手で、頂上に測量旗を立てたいと強く思った。来年、剣岳に登るために10日間の下見に、山を知り尽くした案内人、宇治長次郎の協力を得る。他に2人の人夫も選んでいてくれた。
 山の天気の急変、宇治の注意には従った。遭難寸前で猛吹雪の中を下山した。途中、洞窟(玉殿)の行者を宇治が背負って助け、この行者から、恩返しのように剣岳へは、雪に向かって登り、雪を背負って帰れ、という謎の言葉を受ける。
 測量部では冬に間、地図や測量に必要機材、消耗品、テントや、装身具、などを準備。人件費なども細かく計算した計画書が提出する。予算は、厳しい状態だった。

 翌年は、4月早々に、富山に向かった。測夫、生田、木田の二人と富山に向かった。
 宇治長治郎が出迎えた。荷物の運搬する人夫なども宇治が計らってくれていた。
剣岳は、登ってはならない山、弘法大師も三千足のわらじを駄目にしても登れなかった山、として地元の反感も多かった。
 県庁、町役場、寺や宿泊場の許可も必要だった。
 挨拶に行ったときも、その後の温泉宿の一室を貸して欲しいと交渉したときも、県庁の役人は横柄で、宿の主に断らせた。物置小屋に泊まることもできず、宿の庭に、山のテントを組み立てて宿泊した。周辺の山々の頂上に立って測量、距離や高さなど地図に記入しながら、剣岳の登山口を探る。少しでも、登山口に近づいては、基地を定めテントを張った。基地は少しずつ前進していった。他の運搬人は、食料や燃料、必要物資を基地に運んだ。悪天候に、時々避難しながら、スタッフ全員が一体となる。いくつもの登山口に挑んでは、最終地点で切り立つ岩盤に阻まれたり、その度にテントに戻った。4月・5月は真冬並みの寒さである。天候の急変が予想されれば、基地のテントだけ畳み、荷物を覆って飛ばないように処置し、下まで下りなければならない。そんなことは何度もあった。
 ある日、長次郎、生田、金作、鶴次郎の4人が登山口を探し当て、雪渓の中を登頂に成功する。測量旗を榛の木にくくりつけて岩石で固定する。ところが、赤さびた剣の先と手の平ほどの錫杖の頭が発見された。いつの時代か、だれのものか解らないが、未踏の山ではなかったのである。附近には、岩穴に焚き火のあとや、人の手による、平らにならしたあともある。一通り調べて、4人は来た道を引き返した。大雪渓の登り口に、柴崎と久右衛門が待っていた。生田の報告に、驚き喜んで労ったが、我々より先に登った人がいるという報告と剣や錫杖を見せると驚いた。しかも、空身で登るのがやっとで、重い機材を背負って登れるものではない、と生田から報告されると柴崎は愕然とした。正式のてん標を立てることは至難の業といい、四等三角点ならできないことはないでしょうといわれ、それでは、三等三角点の記のような記録は一切残らない。天幕の中では成功の喜びに沸いていた。普段は禁じていた祝い酒も人夫達にふるまった。

 柴崎は、陸地測量部長、大久保少将に打電した。大久保部長は、科長にその電文を示しながら、「柴崎らはついに剣岳に登った。しかし、頂上には古き時代にすでに人が登ったあとがあったということだ。」といった。「七月二十一日、困難を極めたる剣岳登頂に成功せり・・」という電文を部下にしめした。「しかし、古代においてすでに人が登っていたとなると、初登頂ではないな」と大久保は言った。初登頂でないというだけで、公に発表するのは退けられた。三角科長だけは、柴崎の業績を讃えたかった。「剣岳登頂の成功を祝いあわせて今後の自重を望む」三角科長、という電文を発信した。

 7月27日、柴崎芳太郎、木山竹吉、宇治長次郎、宮本金作、山口久右衛門、南川吉次郎、の6人は大雪渓へ向かった。てん標用の木材を曳いての登山であった。岸壁に登るときは、長次郎が背負って登った。命がけの仕事であった。こうして頂上に、十字型てん板が打ち付けられた。明治四十年七月二十七日 陸地測量部」と筆太に書いた木札が打ち付けられた。剣岳四等三角点は設置された。

 同じ頃、登頂を目指した、山岳会は、天候の見極めで後れをとった。しかし、測量部の成功を心から祝ってくれた。測量部とは、全く違った反応だった。
「剣岳初登頂おめでとうございます。なお、頂上におけるかずかずの貴重なる歴史的発見は日本登山史を飾るものとして、長く後世に伝えられるでしょう。あなた方の輝かしい成功に心から、尊敬と感謝の言葉を送ります。山岳会小島烏水」。
 柴崎は目頭を曇らせた。競争相手であった山岳会が、実は剣岳登頂の意味を最も良く理解する味方だったことに泣けたのであった。彼が書き残した「越中国三等三角点の記は、国土地理院に永久保存資料として残されている。現在五万分の一の地図「立山」に全部入っている。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-28 13:10 | 読書・読書会・図書館 | Comments(5)

郷土史研究会の名前

 家の中に干してある洗濯物。雨続きで、日に当てられないから、一応乾いているように思えても畳んで仕舞えない。今日は、陽が差してきたのでいっせいに外に干したら、暫くして急に雨音がし、急いで取り入れた。するとまた日が出てきたので空を眺めると、雨雲が近くに見えないので、もう一度外に干した。近所では、初めの日差しで、蒲団やベッドマットを干したまま出かけた家が何軒か見える。入れたり出したりを2回ずつ繰り返したが、家にいるからできることである。

 昨日は、郷土史研究会の役員会が行われた。9月の総会に向けての、書類作成(原案はまとまっているので内容検討)、第1号議案、から第5号議案まで。規約や会員名簿まで添付する。議長、会計監査の人も選出するが、あらかじめ打診して承諾を得ている。他のサークルと違って、役員が輪番制と言うことはない。私のように下っ端は、手伝いで済むが、中心にいる役員は、講師との交渉や、会場の確保、見学先への依頼、日程の調整など上に立つ人は大変である。今回、議長選出について、議会や会社総会ではないのだから、会長挨拶のあと、引き続き会長が議事を続ければいいのじゃないか、今は、どの会も議長をわざわざ選んだりしない。簡単なやり方をしている、という意見が出て、私もそれでいいのじゃないかと思った。
 取り敢えず今年は、規約のこともあり今まで通りとなった。
 郷土史研究会という、この会は、11年前、風土記を読む、ということで発足した会とのこと。男性が圧倒的に多く、現役をリタイアした人、歴史好きな人が自主的に立ち上げた。専門知識も豊富で、単なる同好会ではなく、目標をもう少し上に置きたい、という代表者の意見で決まったという。古文書の勉強や他のグループに所属している人も多い。「いせばら」という会報を毎年発行し各界に好評ということだし、何人かの役員、会員がまとめた「地名考」はかなり公にも認められている。
 研究会という大層な名前の会より、もっと親しみやすい名前の方が、という意見もあり、いろいろ候補が挙がったが、調べてみると、どこかに同じ名前の会があり、郷土史研究会は、どこにもなかったということも決め手になったらしい。下世話な推測かも知れないが、講師に講演依頼をする場合、同好会より、研究会の方が、引き受ける講師としても気分がいいのではないか、という言い方をした人もいた。
 私自身は、研究会と書くのが何となく気恥ずかしく、郷土史会と日記に書くことが多いが、これも意識しすぎだろうか。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-25 14:28 | 郷土史・講演会・学習 | Comments(0)
 毎日毎日、梅雨期間中より雨が降る。昨日は気温も低め、雨も止んでいたので、運動のため歩いて整形外科に行った。生憎の天気で、部分日食も期待できないな、と時々空を眺めながら歩いた。途中で、yamadaさんにお会いし暫く立ち話した。しゃんとした姿勢のいい方だったが、杖をついていられる。腰痛でスイミングに通っていられるのを知っている。転ばぬ先の杖のようだ。
 この頃、目が悪くて道で会っても、近づくまでわからないといわれる。私より少し高齢で、白内障の手術はまだしてないが、勧められているとのこと。私は、すでに3年前にしているが、ものはよく見えるし、本を長時間読んでも疲れなくなった、とおすすめした。  今の眼科担当医の先生が、気に入らないらしい。名医と言われるが、自信たっぷりで、質問しても高圧的にものをいうらしい。そういえば、私の別の友人も、同じ先生に叱られ喧嘩になって、別のところで手術した、と聞いている。
 私の担当医は、この先生でないので、叱られたことはない。手術は、こわいといわれるこの先生がして下さった。白内障手術が永久なものでなく、挿入レンズは消耗品なので、ある期間が過ぎると、もう一度やらなければならないと、聞いていたので、そのことも伝えた。長生きしたら2度目の手術もあるわけである。
 yamadaさんは、整形も病院で受けていたが、眼科を替わった時、整形も替えたいと申し入れ、今の整形外科の先生を、この病院にいた先生だからと紹介され、通院して帰るところで私に会ったのだった。
 昔、母親クラブで一緒だったり、長く民生委員をなさったり、旧知の人に会うのが、病院通いの時、ということが多くなった。
 
 受付で待っているとき、隣の人と皆既日食の話が出た。ちょうど、今頃から始まっているはずですね、この天気では無理ですね、残念ですね、奄美の方はどうなんでしょうね、と話が弾んだ。少し暗くなるかと思ったが、病室内にいたせいか、全くきざしは感じられなかった。

 どうですか、と先生に言われ、痛みも殆ど感じなくなりました、と答えた。5回目の注射だけして頂き、レントゲンと、希望して骨密度の検査をして頂いた。レントゲンの結果は、石灰が少し残っているが、薄く範囲も小さくなっているといわれた。骨密度は、同年齢の平均の111%、20代の若年成人の平均の77%とデータを示しながら説明された。
 薬は、お断りし、運動と食事で、維持、改善するよう気をつけますと答えた。リハビリは受けなかった。
 ここ1・2年の間に2度ほど転んだが、骨折までに至らなかったのは、骨密度のせいかもしれない。放っておくと、骨は脆くなるので、注意が必要と感じた。1・2ヵ月後様子を見るので来院するよう、何かあったらいつでも来て下さいといわれた。長く座っていたあと、立ち上がるときに、足に力が入らない、ふらつく、というと、運動不足や年齢からくるものだから、できるだけ足を鍛えるようにといわれた。とてもやさしい先生でよかった。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-23 15:27 | 食・献立・料理 | Comments(8)
 1週間前、梅雨明け宣言が出たあと2・3日猛暑の日があったが、その後は曇りが続き、今日は、夜になって本降りの雨になった。戻り梅雨?なのか。
 横浜球場の、横浜・巨人戦が6回で降雨コールドゲームになった。2:4で横浜が敗れた。
 
 麻生さんが、とうとう衆議院を解散させ、総選挙が行われることになった。国民の信を問う、と記者会見で述べていたが、思ったより今日は、内容もしっかりしていた。
 民主党も、参議院で優勢で、いろいろ審議拒否や廃案に追い込んでいるが、対案がはっきりしない気がする。でも都議選などで力を得て、政権交代に意欲を燃やしているから、一度させてみたら、良かったらそれに越したことはないし、と思っている。

 明日は、日本でも46年ぶりに皆既日食が奄美大島や悪石島(この名前のせいで忘れない)で見られる日。本州でも部分日食は見られるようだ。但し天気が良ければと言うことらしい。なんとか天気が回復してほしい。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-21 22:30 | 時事・社会・地域・自治会 | Comments(6)

多忙な一週間

 7月13日(月) 
 梅雨が明けたらしい。午前中太極拳。Iさんに沢山のひよこ豆をレシピ付きで頂き、Kさんから、青シソをいつでも取りに来て、と言って頂いたが、クリニックへ血液検査に出かけ、伺えなかった。
 7月14日(火) 
 今朝はかっと晴れ渡った。スイミング行き。午後は、2ヵ月も書いてなかった、読書録を書き始める。殆ど手元にない本なので、思い出せる範囲で書き、手元にある本は、筋書き主体で記録する。非公開に、合間、合間に書いたので、送信を繰り返した。そのためか、書いた文章の殆どが消えていた。ショックは大きかった。
 7月15日(水) 
 クリニックと整形外科行き。クリニックは午前11時の予約。整形外科は予約なしで受付順。午前、午後と一日病院に縛られるのはいやなので、クリニックの前に、整形外科を済ませようと、9時半頃出かけた。肩の注射は4回目。注射は5回行うと言われているので、来週あと1回で終わりになるはず。痛みは余りなくなった。先生は、終了後も1ヵ月に1回とか2ヵ月に1回とか、来てもらう場合もある、と言われた。石灰は消えるのですか、と聞くと、残っている人も、消える人もいるという。肩周辺のカルシュームが溶け出すと説明されたがこれで治まるのか気に掛かるところだ。3種類のリハビリもやって、10時半頃終了。11時のクリニックに間に合った。
 月曜日に採取した血液検査の結果は、2ヵ月前に比べて血糖値は改善されている由。中性脂肪も大分減ったが、ぎりぎりの範囲。このまま維持するようにと言われたが、特に注意もしてないのに、オーバーしたり正常範囲に戻ったり、どうしてかと首をかしげる。 
 7月16日(木) 
 猛暑。スイミング行き。帰ってすぐTさんと図書館へ。4冊返却、4冊借りる。そのあと、Tさんも一緒にヨーカドーへ。明日、妹の通院に付き添うことになっているが、妹に夏用衣類(下着)の買い物を頼まれていた。それを済ませ、銀行へ寄る。昼をまわっていたが、Tさんとお茶(クリームあんみつ)したので、空腹ではなかった。この頃、空腹をガマンするとボーッとするので、注意している。Tさんは買い物してバスで帰ると言われ、私はOKへ行く。
 午後、読書録をワードに書いていく。VINさんのアドバイスで、コピー・ペーストしていく。長い文章を書くときはこうすることにする。
 昨日から水に浸しておいたひよこ豆を煮始める。ごくごく弱火で2時間火にかけたら煮くずれる寸前だった。タイマーを首にかけて煮豆とパソコンの間を行ったり来たり。
 夕食は、暑さで食欲がなく素麺と天ぷら、モズクとキュウリの酢の物にした。
 孫が来るのでご飯も炊いたのだが、だれもご飯を食べず、孫も素麺で満腹にし、デザートの甘味もいらないと言った。
 7月17日(金) 
 昨日の暑さはなく、雨模様だが凌ぎやすい日になった。妹のところへ行くので、この気温はありがたかった。頼まれた衣類、昼食用の海苔巻きやおにぎり、ひよこ豆やきんぴら、本やカサなど持つとずっしり重かった。自宅から駅までは歩いたが、柿生から病院までは10分ほどなのに、暑いときはつらい。前回行ったとき、新百合ヶ丘駅北口から、麻生病院・麻生リハビリ病院まで、シャトルバスが出ている、と妹から聞きプリントをもらっていた。新百合が丘は柿生より先だが、急行で行けるので、時間はかからない。シャトルバスのことを思い出して、利用したら、とても便利に感じた。従って帰りも病院から新百合ヶ丘までシャトルバスで行きましょうと勧めた。そこから自宅までタクシーに乗れば、半分以下のタクシー代で済む。Jさんも妹も初めての利用だが賛同してくれ、いつも2200円前後かかるのが半分以下で済んだ。買っていったもので昼食。Jさんは、散歩に行ってくると出かけたが、今日は飲まずに帰ってきた。妹に褒められ、晩酌は1本余計になった。
 妹の様子は、外見だけ見れば元気そうで、顔色も良かった。ただ、痛みは相変わらずひどく、一日起きてはいられないという。8月に、千葉にある、神の手を持つといわれる病院の診察を仰ぐという。こちらの病院に話して、大きなレントゲン写真を預かってきた。神の手がいかなるものか、私にはわからないが、苦痛を和らげることができるなら口を挟むことはできない。夕食を頂き7時の電車で帰ってくる。
 7月18日(土) 
 また暑い日になった。夏だから当然だが。午前中、たまった新聞を読んでいたら、Kさんから、今お暇なら、シソを取りに来ませんか、と電話がかかる。すぐに車で出かける。少し前に作ったのがちょうど、終わるところで喜んで頂いてきた。シソ畑のようにみずみずしい青シソが育っていた。沢山頂き、柔らかい葉だけを摘んで水に浸した。とても一度に調理しきれない程ある。シソ味噌に、シソジュースを作ろうと思う。今夜は、孫の半月遅れの誕生日祝い。高校野球の地区予選に敗退して、一息ついているところ。残念会でもある。孫のお気に入りの「バーミヤン」へいくので、私も楽ができる。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-18 14:56 | 生活雑記 | Comments(0)

読書録 ④ その他

 学園バーシモン 井上荒野
この著者のものを何冊か読み、読んでみたが、少し違った感じだった。学園長が理想と信念で作り上げたミッション系の学園。小田急線のT学園を思わせる。学園長は、高齢で病床にあるが、お祈りや賛美歌、学園の行事で、快癒を願う学園側。生徒は現代っ子で、社会の荒波から守られた以前のような花園ではない。諸々問題を抱えている。幸福の手紙か不幸の手紙かわからない、赤い手紙が配られたり。バーシモンとは学園サイトのことらしい。若い読者向けの小説なのだろう。感想は略す。

 五千回の生死 宮本輝
短編集の一つがこの表題になっている。一日の五千回も死にたくなったり生きたくなったりするという。いくら何でも五回ならあり得るが、と嘯きながら読むと、話の初めの状況と、最後、ダンヒルというライターの話がオチがあって面白い。「トマト」「眉墨」「力」「復讐」「アルコール兄姉」も良かった。物語の名手と感じ入る。

 つばさよつばさ 浅田次郎
 著者は、旅先作家に憧れていたという。国内のみならず、外国にも数え切れないくらい旅している。旅先で出会ったこと、感じたことをエッセーに書いたり、小説の資料を調べたり、飛行機に乗っているときでも、さっと書いてパソコンで送っている。すでに旅先作家である。JALの機内にある「翼」という雑誌にも連載している。「蒼穹の昴」なども現地に足を運び調べているのだ。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-16 22:25 | 読書・読書会・図書館 | Comments(2)
 四度目の氷河期 荻原浩 新潮社
 不思議な雰囲気の小説だ。でも最後まで、引きつけられて読んだ。
 感想はむずかしいので、あらすじを紹介します。

ぼくという一人称で語られている。生まれたときから親がいない人間の気持ちがわかるかい。と言う問いかけ。
自分に父親がいない、と意識したのは4歳の時。かあさんとヒーロー戦隊の屋上ショーを見に行って、前方が大人ばかりで見えず、子どもは、父親に肩車して見せてもらっていた。ぼくはかあさんに、「ねえぼくにもあれをやって」、と頼んだ。母は「いいわよ、ワタル」さっとしゃがんで肩車をしてくれたが、よろけてやっと立っているのがわかった。
ぼくの名前は渉、4歳のときのことだ。「ぼくの父さんはどこにいるの」と聞いたときも「ワタルが生まれる前になくなったのよ」と答えた。
ぼくは、ほかの子と変わっていたらしい。背も高く、髪の色も目の色もみんなと違っている。幼稚園では、じっとしていられず、すぐ動き出したり、窓から外を見たり、それから、大きな声をだして園庭を走り回ったり、絵を描くと形も色も普通じゃなかったり、かあさんは幼稚園に呼び出されて、行動を注意されて、頭を下げても、決してぼくを叱らなかった。その代わり、順序立てて、ぼくの気持ちを聞き、自分がそうされたらどうか、相手の気持ちを考えるように、と話した。
 このように、ワタルは、17年11ヵ月の自分の人生について語っていく。
小学校に入ると、周りから、外人の子といわれた。身持ちも悪い女が、外国人の子を生み捨てられたらしいと噂も立った。でもワタルは、母はそんな人ではない、研究所に勤め、仕事も勉強も熱心でまじめなかあさんだと信じていた。かけっこは他の子どもと走ってもダントツに速かった。母親が留守の間、面倒を見てもらった、ソメノお婆さんは、風呂場で転んで死んでしまった。ワタルはソメノさんのことを覚えてない。母親は、ソメノさんさえいてくれたら、と大きな支えを失ったことを嘆いた。一人で留守番をするようになって、母の部屋を探検した。研究者だったから、本や資料に埋まっていたが、読めないながらわかる文字だけ飛ばして読んだ。図や写真類も眺めた。
 学校ではいじめに合い、仲間はずれにされたが、ぼくは気にしなかった。一人で遊ぶ楽しさも覚えた。かあさんの研究所にも連れて行ってもらい、研究所の人達に可愛がられたし、遊び場所もいくらでもあった。研究所の高橋さんは、かあさんの同僚で、かあさんが留学生として、その頃ソ連といわれたロシアにいたこと。シビルスクというところだそうだ。「大学院時代から君のおかあさんは優秀で、論文が認められてソビエト科学アカデミーの客員研究員に招かれたんだよ。シビルスク研究センターにいたんだ」と教えてくれた。高橋さんが父さんだったらいいのに、と思っていたが、高橋さんは家業を継ぐため辞めてしまった時は悲しかった。
 ある時、母さんの部屋で、科学雑誌を手に取り、何気なくページをめくっていたときに「シビルスク研究センター」の名前が目に飛び込んでくる。かって母親が留学していたところだ。『クロマニヨン人?シベリアのアイスマン、公開される』。クロマニヨン人の特徴が詳しく書かれている。胸がどきどきし、ぼくは確信した。ぼくは、クロマニヨン人の子だ。父親はクロマニヨン人だ。母親は、遺伝子研究をしていた。人工授精という手もあるのだ。
 すべてに納得したぼくはクロマニヨン人としての生活をしようと決めた。夏休みに入ると石器作りに熱中した。矢尻、鑓先、ナイフ、キリ、のこぎり、針。山に登り谷川に下りて石を選んだ。槍を作り、狩りの練習もした。ワタルの異常な行動は、村の人に見られ、噂が瞬く間に広がり、いじめの親玉のジャンボに、動物虐待か、と嫌みを言われたが、ガマンする余裕もできた。
 捨てられたらしい猟犬が、すり寄ってきて食べ物をねだった。黒く汚れていたのでクロと名づけた。ある日、釣りをしていると、野球帽の活発な男の子が、クロと一緒に近づいてきて、「釣れる?」と声をかけた。細いまっくろにやけた子どもだ。やたらと声をかけてくるのがうるさかったが、一緒に釣りをはじめた。クロを風呂に入れてやれとか、ノミ取りシャンプーをつかえだのうるさい。釣りの成果についても口を挟む。帰れ、といっても効果なし。名前をきいて初めてサチは紗知という女の子だったとわかる。ともに小学5年生と言うことも。明日も来ていい、といわれ駄目と言ってもサチはくる。そして少しずつ友情が芽ばえる。自分がクロマニヨン人だということも絶対に誰にもいわない約束で教える。
 新学期、サチは転校生として先生に紹介される。また都会に帰っていくものと思っていたワタルは驚き、嬉しかった。サチはぼくのジグソーパズルにたった一つ欠けていたピースだった。彼女が探していたピースはぼくが持っていた。二人は運命的な関係にあった。
 6年生になっても、サチはワタルのそばにいた。みんなに噂されるし、ワタルは恥ずかしいから一緒に帰るのはやめようと、言おうと思ったが、それでは、そうする、と言われるのが怖くて言い出せなかった。サチの母親は、カラオケスナックで働いていた。そのことでクラスの女子の中で孤立していた。サチは自分の父親のことを、あの馬鹿といった。サチの父親は、つとめていた会社を辞めて自分の会社を作ったのだが、うまくいかず、そのおかげで、お金も働く気力もなくしてしまった。この町は、父親の生まれ故郷で、1からやり直すつもりで勤めに出たが、田舎の地味な仕事が気に入らなくてすぐやめてしまった。そのため、母親が働きはじめたのだった。
 それからはお酒ばかり呑んで、家族に暴力をふるうようになったそうだ。

 中学生になった。二つの小学校からそのまま上がってきたので変わりばえはなかった。最初のスポーツテストで、もう一つの小学校から来たスーパージャンボに握力で大差をつけられた。ぼくの闘争心に火がついた。ぼくは全8種目中5種目で学年1位をとった。体育教師の木嶋が声をかけてきた。部活は、陸上にはいらないか、と誘われたが行くつもりはなかった。6年の時からかってはイジメ頭だったジャンボの子分「トラ」とつきあい始め、遊び仲間になっていた。同姓の初めての友達で縁を切れなかった。三階の教室から校庭を見ていると、木嶋がストレッチを繰り返してから、棒を片手に抱え上げていきなり走り始めた。やり投げの練習だった。木嶋は、部活の監督だが、現役の選手でもあった。ワタルは放課後、校庭の隅に立っていた。「お、南山、入部する気になったか」と木嶋が近づいてきていった。いえ、そのおー、と曖昧に返事をし、やり投げをやらせてください、と言った。やり投げの競技は中学生にはないといわれた。トラの関係で、ワタルは悪の道に踏み入れそうになるが、危うくのところで踏みとどまる。高校は、スポーツの能力がものを言って二流校に入れた。サチとは高校も変わったが、付き合いは続き、家にも来るので母親に喜ばれた。部活も入部したが、それ程熱が入らず、やり投げがしたいという希望も叶えられなかった。仕方がないので槍は自分で買うことにした。小遣いとコンビニのアルバイトで槍を買い、中学時代の部活の監督、木嶋先生に相談や指導を仰ぎに行った。
 朝早く誰もいないうちに学校へ来て、野球部の練習の始まる前に、校庭で練習した。しかし、野球部の上級生に見つかり、グラウンドにキズがつくと文句を言われた。かならず県大会に出て入賞する、グラウンドのキズは直しておく、と約束し、早朝練習は認められた。
 母親が身体の不調を訴えた。心配したワタルは病院へ行くように説得し、母も検査を受けた。肺ガンだった。入院中はずっと付き添った。一度退院したが、二度目の入院の時、話があるといわれ、あなたの父親は、ロシアの名の通った学者だと教えられミハイル・シロコゴロフという名前も教えられた。その人の元で指導を受け、学んでいたと言った。しかし、妊娠を知ったとき、生まないで欲しいと言われたが、決して迷惑はかけませんからといって、日本に帰ってきたという。
 ワタルは、父親に望まれて生まれたのではない、ということがショックだった。クロマニヨン人の子と思っていた方がよかった、と思った。その日から、ワタルの父についての調べが始まった。部屋の周りが本で埋まっている中で、すでに沢山の資料に目を通したがそれらしいものはなかったが、ふと送られてきた科学雑誌の中に、父親の名前のように見える文字を発見、論文と初老の男の写真が載っていた。それから踏み台がなければ届かない上段に、袋に入って重なっているものを見つけ、その中に留学当時の若い母親や仲間と一緒の上司らしい写真もあった。その人と、雑誌の男性は似ているように思える。
 母の容態は、よくならず、会わせる人がいたら伝えるように言われる。母親の両親はすでになく、研究所の人や中学校の木嶋先生が来てくれた。亡くなったとき、一番悲しんだのは、研究所の斉藤さんだった。斉藤さんは、ワタルが中学生の時、母親から、会って欲しい人がいる、といわれレストランで一度あったが、ワタルが冷たい態度をとったため、結婚できなかった人だ。二人に悪いことをしたという気持もある。斉藤さんは親身になって、いろいろ世話をしてくれ相談にのってくれた。
 木嶋先生が、うちに来ないか、男の子が3人いるが、3人も4人も同じだと言ってくれたし、奥さんも遠慮はいらない楽しく暮らしましょう、という肝っ玉かあさんだったが、ワタルは一人で大丈夫、やっていけると答えた。サチも時々来て力づけてくれた。時々は、女友達のところへ行くと親に嘘をついて泊まった。かあさんは、大学を卒業するまでのお金は蓄えておいてくれた。
 ワタルは、ロシアに行こうと考えた。サチも一緒に行くといったが、断った。サチの父親は、サチが夜、出かけたり外泊するのを疑い、ひどい暴力をふるった。近くのバス停からサチの助けを求めた携帯電話で、そのことを知ったワタルは急いで駆けつけるが、サチは父親の仲間の車に押し込められ連れ去られた。父親と激しい暴力の応酬で、ワタルは父親を殺してしまった、犯罪者になったらロシアに行けないと思いこみ、新潟まで逃れるが、何事もなくロシアに渡れた。
 ホームステーをお願いしている家から、父がいるらしいシビルスク研究センターに行き、守衛に息子が来たと伝えてもらう。戸惑いながらも、抱きしめてくれる父。しかし、お金のことや家族に知れることを懼れているのがわかる。アイスマンが収納されている博物館を紹介してもらい、父親と別れる。
 博物館でアイスマンを見て、やはり自分はクロマニヨン人と頷く。こんな博物館でなく本来いた氷河の中に眠らせてやりたいと思う。
 サチがあとを追ってきた。サチの父親は無事だった。雪原に足を踏み入れる2人の最後が気にかかる場面だが、きっと生き延びられるだろう。
 消えた感想文よりはるかに長いあらすじを書いてしまった。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-16 22:18 | 読書・読書会・図書館 | Comments(3)

読書録 ② 市塵

 市塵 上・下 藤沢周平
太極拳で一緒のKさんからお借りする.Yさんのあとに回ってきたが、今読む本で囲まれている。あとでお借りする、と言ったが、ゆっくりでいいからといわれ借りてしまった。
Yさんは、読みにくい本だったといわれたが、ちょっと読み始めてみると、ほかのものを後回しにして読んでしまった。
 新井白石のことを書いた、伝記的歴史小説である。5代将軍徳川綱吉のあとを継いだのは、新井白石が仕えていた、甲府藩主・綱豊であった。6代将軍家宣と名を改めた。甲府藩の家老・閒部詮房(マナベアキフサ)から政治顧問として家宣を助けるよう頼まれていた。白石は、甲府時代から、藩主に学問の進講をしていた。白石の博識は家宣政権にとって必要不可欠と判断したのである。家宣が六代将軍になると、閒部詮房と新井白石は改革に乗り出した。まずは、綱吉政権下での生類憐令の撤廃である。朝鮮使節の歓迎式典の改革、綱吉政権下での乱脈を極めた貨幣政策の抜本的改革も是非やらなければならない。しかし、あまりに性急な改革は、将軍家宣の信任はあるとはいえ、閒部詮房以外の老中たちの抵抗が大きい。また、儒者仲間であるはずの林家や前貨幣政策の責任者、荻原重秀との対決も覚悟しなければならない。いつしか新井白石は政権の中枢で絶大な権力を発揮する事になる。しかし、この権力の裏付けになっていた、家宣が亡くなってしまうと、徐々にその権力の足許が揺らぎ始める。家宣の次の将軍は幼年で7代将軍になった家継である。しかし病弱で夭折。
8代を継いだのは、吉宗である。吉宗は前政権の体制を一掃した。すでに、隠居の身であったが、家も財産も取り上げられた。徳川将軍家二代にわたり政権の中枢にいた新井白石の最後の姿だった。 
[PR]
by ttfuji | 2009-07-16 22:09 | 読書・読書会・図書館 | Comments(0)
 「消えてしまった読書録」で書いたように、初めの10行ほどはそのまま使い、あとは書き直しです。消えたものと、改めて書いたものは、似て非なるものがあります。前の方が簡潔だったような気がしますが、証拠がないので負け惜しみに聞こえるでしょう。
   
  しばらく読書録を書いてないなあと思って調べたら、何と5月16日が最後でした。
 どうしよう、題名だけにしようか、と考慮中です。いろいろあって日々の生活に追われ・・・といって書かなければ後悔するのも確か。書ける範囲で感想を書くことにします。

 生きいそぎ 志水辰夫 集英社
 VINさんがアップされていた本。8編の短編からなる。老境を迎えた男性の人生の諦観が感じられる。「人形の家」は、20年前、妻に去られた男が、家をきちんと整えながら去った時の状態のままにしておく。妻が大事にしていた人形が思わぬところから発見され、妻は死んでいることを確信する。「うつせみなれば」は妻に去られた男に、娘からの層雲峡旅行の誘いが来る。現地集合で行ってみると、妻がいた。妻も困惑している。娘の計らいだったが、簡単ではない事情もあるようだ。だが修復を感じさせる雰囲気もある。

 我が輩は犬であるー武蔵野の散歩道 林繁比古 文芸社
  武蔵野の緑濃き井の頭公園、そこには素敵な空間が広がる。茶店に憩い、酒を酌みながら、遠くはスペイン、フラメンコの調べから、古事記まで、日々想うことを綴った珠玉のエッセイ集。=本の紹介文。
 著者は、犬の目で書いたといっている。しかし、読んでいるとこの人何者?という感じを持つ。花店を経営しているらしい。かと思うと、フラメンコが好きで外国旅行の写真も沢山載っている。古代史にも詳しく、短歌もプロ並みだ。大変な趣味人というか、教養人らしいが、感想はまとまりにくい。

 帰りたかった家 青木玉 講談社
 「小石川の家」その後、というかかなりダブった部分が多い。しかし、なぜか懐かしく、ほっとするものがある。幸田露伴が祖父、幸田文が母、厳しい躾に、おどおどした気弱な自信のない少女時代。父は卸酒屋の三男で、はじめは、経済的にも恵まれてハイカラな生活で両親、父方の祖母、母方の祖父などの愛情を一身に受けて、育ったが、父の独立、事業の不振などから、母共々いろいろ手を尽くすがうまくいかず生活は苦しくなり父は結核に罹る。その頃から、玉は、病気がうつらないようにと近づくことを禁じられる。父が助からないとわかり、祖父の家にもどる。玉は大好きなやさしい父のいる家に帰りたかった。父の実家とも疎遠になり、女子大を出ながら仕事につく勇気もなく、母の仕事(作家)を手伝いながら勧められるままに結婚をする。漸く人生の平穏を得たようだ。ある日、父の兄(伯父)が訪ねてくる。姪の玉を懐かしんで涙を流す。かなりの老人になっていたが、控えめで玄関から上に上がろうとしなかった。その後、交流はあったが、伯父の息子(従兄弟)から亡くなったことを知らせる電話があった。雪の夜、玉は通夜に出かけた。
父方とこうして交流が始まったことで、読者である私もほっとした。
 ラストラン 志水辰夫 徳間書店
未読のまま返却。機会があったら読みたいと思っている。

 しゃぼん玉 乃南アサ
 以前に読んで読書録まで書いたのに、題名に記憶がなく、再度借りてきた。読み始めてわかったのだが、最近こういうことが多くなった。題名と内容が一致しないので、心細く情けない。

 引金の履歴 乃南アサ 新潮社
 母の秘密、野良猫、なかないで、塵箒、置土産の5編が一つの拳銃によって繋がっていく。
「母の秘密」、30代の主婦、織江は同窓会に出席し羽目を外し二次会まで飲む。家に帰らなければ、と3次会を断ってタクシーに乗ったが、すでに飲みすぎで、新宿歌舞伎町で下り、通りのベンチに寝てしまう。家出少女が、こんなところに寝ていたら危ないよ、私が見張ってやっていたけど、と声をかける。時計は深夜を過ぎている。帰ろうとすると、お礼にお金を欲しいといわれ1万円をわたす。それでは、私もお礼をしたいからこれを取っておいて、と布に包んだ小さいが重い物を渡される。翌日、開けてみると拳銃だった。小さく,まるで玩具のよう。しかし本物だったら大変だ。歌舞伎町でもらったなんて誰にも言えないし、信じてもらえないだろう。まず、本物かどうか確かめなくては。誰もいない昼下がり、蒲団を何重にも巻いて引き金を引く。本物だとわかる。
「野良猫」は、織江に拳銃を渡した少女と、シンナーなど売る少年の話。結局ヤクザに利用されて少年は命を落とす。「なかないで」は毎朝、カラスの鳴き声で寝不足で仕事もうまくいかない新入社員が、カラスにゴム鉄砲向けるが、カラスの仲間に復讐され大怪我をする。怒りのあまり、拳銃が欲しいと、新宿のシンナー売りに声をかける。複雑の手順で高い拳銃を手に入れる。しかし、実行には移せない。カラスにも憎めない感情が芽ばえる。拳銃の処分に困り、新宿の少年に返しに行く。少年は、身の危険を感じ、少女に拳銃を預ける。少女が織江に手渡すと言う手順なのだが、5つの話の拳銃が手に渡っていく順序は逆である。手に持つと、安心感よりも引き金を引きたいという欲求との闘いが始まる。最後まで、事件や警察沙汰が絡まなかったのがよかった。
[PR]
by ttfuji | 2009-07-16 22:05 | 読書・読書会・図書館 | Comments(0)