私の生活や自分史・読書、旅などの記録


by ttfuji(トコ)

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 11月28日木曜日。
 念願だった東京宝塚劇場の『風と共に去りぬ』を観てきた。華やかな夢の舞台はやはり素晴らしかった。原作は高校時代に読み、その後映画も何度か観たし、テレビでもみたが、劇場演劇は別物である。しばし、夢の世界に浸れた。
 BSで宝塚歌劇の公演を時々見ていたが、劇場で見たいと思っていた。友人のNさんがチケットを手配してくれたが、なかなか取れなかった。予約日を2度変えたが、2度とも取れず、人気のすごさに驚いた。
 ネットと生協を通して申し込んでいたが、取れなかった28日分が2枚だけ取れたと後日通知があったという。キャンセルがあったのだろう。
 3人で行くことになっていたが、一人が何度か行っているからと降りた。
 筋そのものが分かっており、ヒロインのスカーレットオハラに好き嫌いを越えて魅力を感じていたから、スケールの大きな原作に初め、レッドバトラーの役者がスマートすぎて貫録にかけるように感じたが、見ているうちに気にならなくなった。さすが主演、歌も演技もよかった。スカーレットは相反する二つの心が争う表と裏を2人が演じる演出であった。
 劇の終了後の総出演の歌とダンスのレビューが素晴らしかった。
 こんな楽しみもたまにはあって良い。
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by ttfuji | 2013-11-30 23:25 | 映画・演劇・音楽 | Comments(0)
 10月後半から11月にかけて読んだ本を羅列してみた。そのうちの何冊かは、強く印象に残ったものもあり、面白く読んだものあり、また反発を感じたものもあり、その都度、感想書けばよかった、と思うのだが、いつもの癖で後回しにしてしまう。後になると思い出すのも時間がかかり本も手元になく余計にまとまらなくなる。

 そこで、代わりと言ってはおかしいのですが、先日ある冊子に書いたものを、恥を忍んで、転載します。自分史の一部であり、冥途のみやげ、といったところです。

  私の青春時代 
  ① 青春の日を訪ねて 
 数年前の1月2日。正月早々なのに予定もなく、みんな出掛けたので、私も気晴らしに出掛けることにした。
 ずっと考えていた、東京の思い出の地を訪ねてみようと思い立った。伊勢原駅でスイカを3000円分チャージ、残金があったので6千円近くになった。
 行き先が箱根とか鎌倉とか横浜とかいくつか浮かんだが、最初の予定通り、新宿に向かう。
 目的地に行く前に、街のお正月風景を見ようと新宿の明治通りと靖国通りを歩いた。お正月早々人出の多いのに驚く。デパートも福袋の売り出しで大賑わい。5千円、1万円ともっと高いものもあり5万円分の商品が入っていて5千円!と大声で宣伝しており、ちょっと誘惑に駆られそうになる。  
 昼食は、中村屋のインドカレーでも食べようかと入るが、2階のレストラン入り口から3階まで並んでおり、30分待ちというのでやめた。歩数計を付けており、すでに1万歩を越えていた。
 山手線に乗り恵比寿で降りた。駅前の空き地が整備され(何年か前?)きれいな駅ビルになっている。恵比寿ガーデンという素敵なショッピング街にも足を向けたが目的地でないので、Uターンした。
 駅ビルの5階のレストラン街で食事することにし、何にしようか迷ったが、ここにも中村屋の支店があり空いていたので、インドカレーを頂く。チキンカレーでさらっとしている感じで、疲れと空腹のせいもありとてもおいしかった。コーヒーも頂く。とくに見るものもなく、また山手線に乗る。
 五反田で池上線に乗り換えれば、昔、一時住んでいた旗の台に行けるのだが、そこは通り過ぎ、神田で降りる。
 上京してはじめて勤めた会社は、神田駅に近い、医療機器卸の会社だった。懐かしく今でも存続しているとしたら外観だけでも見てみたいとずっと思っていた。何しろ50年近く前のこと。願っていたという方が当たっているかもしれない。風の噂で、二部上場したと聞いたことがある。
 駅周辺も、道路が広くなり、ビルが建ち並び、すっかり様変わり、暫く駅前から外を眺めたが混乱するばかり。
 須田町や神保町まで歩いたこともあり、その反対側だったことを思い出す。そう、「北乗物町」という変わった町名だった。鍛冶町の隣だった事も思い出し、小学校が近くにあったが、小学校の名前が思い出せない。
 自転車から下りて信号待ちをしていた人に、北乗物町という町名がありますか、と聞くが、聞いたことがないといわれた。町名変更されてしまったのかもしれませんね、と話した。   
 急にひらめくものがあり、少し方角が分かってきたので、大きな通りを渡って更に見当で歩いてみた。
 小さな医療器関係の会社が幾つもあり、近くに来ていることが分かった。宅急便の会社があり、荷物の積み下ろしをしている若い人たちがいたので、手の空くのを待って、この辺に○○という会社はありませんか、と聞いてみた。
 そこを右に曲がってすぐの路地を左に曲がると、あるけど、今日は休みだよ、とお兄さんは教えてくれた。礼を言って歩き出したが、路地にある会社ではない、通りに面した間口の広い店舗のはず、と首をかしげた。その名前の会社は確かにあった。
 随分間口が小さくなっている。シャッターが閉まっていたが正月なので当然と納得し、歩き出すと、もう少し広い通りにぶつかったので駅の方向に曲がった。そこで見覚えのある風景に出会った。ここだ、ここに大きな店舗はあったはず、と見上げると、会社名の付いた5階建てくらいのビルが建っていた。ここを曲がったところに、社長の弟が独立した会社があるはず、と思って見ると、別名の会社がちゃんとあった。
 会社は、何かの事情で縮小しビル経営に変わっているのかもしれない。50年前のことが走馬燈のように思い出された。

 従業員20数人の医療機器の卸業だったが、若者が多く、活気のある店舗だった。社長の出身地、会津の若者が多く、小売店や学校、病院などへ自転車で配達。20代の女性が数人、電話受付し、合間に電話相手と冗談を言い合っていた。みんな社交的で若者も商売上手に鍛えられる。
 新入事務員の私にもみんなにとても親切にして頂いたのに、2年ほどでここを辞めたのは、活気はあるが喧噪もある雰囲気になじめなかったのかも知れない。
 懐かしくほろ苦い思い出の再訪だった。
 帰宅したのは5時過ぎだった。家を出る時、持って行った文庫本が、小田急線と山手線で読み終わり、ラッシュの時を避ければ空調は効いているし、いい読書環境だと思った。(2008,1,2)
    

  ② 青春の日のほろ苦い思い出 =転居と転職=
 上記➀で、青春時代の一部を紹介しましたが、その前後のことも書いておきたいと思います。
 私が上京する時、すでに2歳半下(学年は3年下)の妹は、東京駅前の丸ビルにある「日本交通公社」に勤めていた。私の高校卒業の昭和29年は就職難で地方では就職先が少なく、銀行などは縁故採用が多かった。
 高校在学中に中学校の助教諭試験というのがあり、同級生3人で受け一人だけ受かり、僻地の学校でもいいから行きたいと願ったが、4年制大学でも教職に就くのは難しい時代、と先生に諭された。終戦直前、代用教員が何人もいたが、その時代の制度だったのかもしれない。
 仕方なく、M税理士事務所に勤めた。勤めながら市立短期大学を卒業した。この短大は、昼夜通し授業で、どちらの授業も受けられ、卒業成績も順位も一緒だった。この短大は2年後4年制大学に昇格した。市が経済的理由で遠い大学に通えない、地元の向学心のある学生に勉学の機会を与えようと創立したもので、教授や助教授はのちに東京の一流大学で有名になる先生が多かった。私も何人かの教授や助教授のゼミや授業を受け、素晴らしい仲間にも出会った。終生家族ぐるみでお付き合いさせて頂いた恩師もいた。

 3学年下の妹は私よりずっと成績もよく、かなり難関だった日本交通公社の試験に合格した。地元では、私と同じ思いをするのが、わかっていたので、父は東京での就職を許し、板橋の父の従兄の家に同居させてほしいと頼みに行った。妹はその家で家族同様に可愛がられていたが、2年ほど過ぎたころ、娘さんが結婚して同居することになり、自分の持っているアパートの一室を妹に世話した。
父は娘の一人暮らしは心配でならず、悩んでいたので、この時とばかり、私が一緒に住みますから、東京へ行かせてください、と懇願した。兄妹が多く家業は順調ではなく,働かなければならなかった。仕事は決まっていないが、経理は決算書や申告書もできるように叩き込まれたので、すぐ見つかる、という自信があった。
 恩ある雇用主の先生に事情を話し辞めさせていただきたいと頭を下げたが、なかなか認めてもらえず、この時のことを思い出すと、いまだに胸が痛む。今と違ってドライでない時代だった。

 兎に角、4畳半の妹の部屋に転がりこんだ。板橋駅に近い北区滝野川というところだった。半年後、神田の会社に出入りする人が、家を増築したので、信用のできる娘さんに貸したい、というので、6畳間をお借りした。京成小岩駅に近い静かなところだった。上品な老夫婦と台所は一緒の自炊だったが、時々たけのこご飯や旬のおいしいおかずを頂いた。父母が挨拶に来てくれた。

 神田の医療機器卸の会社の次に勤めたのは、日産自動車デイラーの営業所だった。五反田近くの第三京浜にあったが、「小岩」からでは遠いので、「旗の台」駅の近くに越した。社員セールスの人が、マンションに転居するので、どうかと勧められて入居した。勝手に次々に住まいを変えるので、妹からブーイングが出たが、広さと家賃など条件が悪くない。小さな台所もついている。が、日当たりが悪く、ここも1年足らずで引っ越した。
 最後は池上線の蓮沼駅〈蒲田の手前〉近くの、新築のこじんまりした2階の部屋を借りた。ここはきれいだし日当たりがよく休日、布団も干せるので、妹も気にいった。
 ここに住んでいる時、ケネディ大統領の暗殺のニュース映像が流れた。大ショックだった。確か休日で、出かける準備をしている時だった。心に穴が開いたような気持だった。
 自動車販売会社の営業所では、内務すべてを担当した。所長、課長、係長、と平社員数名で基本的には本社で稟議書や信用調査書、納車時の割賦販売の時の契約書や支払明細書や回数に応じた手形は本社で作成したが、急ぐ客には、セールスマンに頭を下げられて営業所で作った。元利均等計算なども覚えた。その上で手形決済のため、チェックライターを何枚も打った。今ならローン手続で済んだはず。
 私はどうしても運転免許がとりたくて、休日や夜、教習所に通い免許をとったので、昼休みに下の修理工場の片隅で下取り車に乗せてもらい、狭いところでのバックや幅寄せ、車庫入れなど練習した。時折、セールスマンやサービスマンが的確なアドバイスをしてくれた。
 本社の業務連絡にも、男性に頼らず自分で運転して行くようになった。美智子妃殿下の生家の池田山近くを通ったりした。
 2年後には、全労系の組合に婦人部ができ、婦人部副部長を仰せつかった。メーデーにも参加した。女子社員の親睦を兼ねて奥多摩へのキャンプや日比谷公園・松本楼でテーブルマナーの勉強もした。

 免許を取った年の年末、中古車を借り、妹と帰省した。我ながら度胸があったと思う。休日、父母が上京した時は、中古車を借りて、江ノ島まで4人でドライブした。この時のことを、妹は、江ノ島でなく日光だと言い張るが、私は、日光に行った覚えも、いろは坂を車で登る自信もない。
 後輩もでき、補助的な仕事を手伝ってもらったが、来客へのお茶入れは拒否された。なぜ、私がしなければいけないのですか、と言われ唖然とした。それまで、私が新車の展示ルームや来客の応接室、隣の事務室で上司や課員にもお茶入れを当然としてやってきた。
 助け合ってやりましょうと説得したのだが、時代も変わりつつあった。

 車に乗りたくて、夜の納車の時、セールスの人達の納車を手伝うこともあった。もちろん、新車には乗せてもらえない。納車に2台で行くのだった。セールスの人達は仲間同士で協力し合っていた。
 彼らは、よく横浜中華街に繰り出した。たまに、よく協力してくれるというので、私や内務の人達にも御馳走してくれるのだった。時にバーやナイトクラブも誘われた。
 しかし、残業も多く帰宅も遅くなると、妹の目も気になり、私自身も本来、気が小さく真面目な性格ゆえ、こんな生活はよくない、と感じ始めた。   

  ③ 第三の職場で
 またも、転職を考えた。信頼する人が、日本一のヘリコプター会社を紹介しくれた。面接のとき、「当社に私を推薦する」という作文を書かされた。26歳になっていたが、年齢のハンデはやる気でカバーする、と書き、若くても結婚退社の確率は同じ、私は仕事への情熱をアッピールした。
 採用された私の仕事は、運航課であった。この会社は、西武の堤清二氏が社長で、本社は日本橋だが、運航課は西武デパート内にあった。デパートの社員割引も利用できた。
 ここでも、今までしたことのない経験をした。所沢のヘリポートへ書類を持って行ったとき、運航課にいて、まだヘリコプターに乗ってないのかと聞かれ、3・4分乗せて頂いたのだった。
 もう一つの経験は、ブログ日記に書いているので転記します。
   
   
 プロジェクトX (富士山レーダーの建設)
 《NHKの「プロジェクトX」は好きな番組だった。放送終了になってしまってとても残念だ。昨年放送された中で、印象の強いものが2つあった。一つは、富士山に気象用ポラボラアンテナを建設するというもの。
 私はそのヘリコプター会社に勤めていた。運航課だったので、大手町の運輸省や羽田の航空保安事務所に飛行の許可の申請書を出す仕事をしていた。
 運航課にはパイロットがいつも出入りしていた。飛行機を固定翼、ヘリコプターを回転翼といい彼らはどちらも操縦できるベテランだった。軍隊で飛行兵だったのかも知れない。皆自信家に思えた。ヘリは70機以上あった。ベルとシコルスキーという2種類あった。
 ヘリコプターの目的は、写真撮影、ニュース取材、人命救助、物資輸送、薬剤散布、地図作製、遊覧飛行などがあった。
 その頃、計画はずっと前からだと思うが、富士山にパラボラアンテナを建てるという話が広がった。社内あげてのビッグニュースだった。機長は大ベテランの神田さんという人だった。
 富士山頂の気象は激しい。強風が吹き荒れる。下から巻き上がる風もある。球形のアンテナの上半分を下にかぶせる。命がけの仕事だったということは「プロジェクトX」で知った。
 勿論、中心になった人たちは、他の会社でも大勢いた。台風の進路、大きさなど予測し少しでも被害を少なくするためにレーダーは絶対必要なものだった。
  神田機長は完成したとき、上司に詳しい状況など報告していたが、私たちOLが賞讃すると、ううん、たいしたことないのよ、と女言葉で冗談を言っていた。
 その神田さんがプロジェクトの一員として番組に出ていられた。懐かしかった。40数年たっているのに若々しく堂々とした風格は変わっていなかった。
 そのレーダーも気象衛星が打ち上げられ役割を終えた。》(2006.1.16 記)

 以下は蛇足ですが・・
 その後、このブログ日記を読んだ、Yさんという方から、私は、商事会社の航空機部門に勤め、ヘリコプターや器材、ヘルメットまで納入した者です。神田さんは特注のヘルメットでないと頭が大きく入らなかった。
 私にとっても当時は懐かしい。今は、ドクターヘリの仕事でドイツや各国へ行きます、というメッセージを頂いた。その後、ドクターヘリについての番組で私の退社後に社長になられた方でYさんとドクターヘリの仕事を一緒になさっている方がNHKテレビに出演されているのを拝見した。

 ところで、私は2年でこの会社を辞めた。親友のご主人が世話してくれた人と結婚した。東京オリンピックの開会式の日、式場は新宿の厚生年金会館であったが結婚式どころではなく、ロビーでテレビの中継を見ていた参列者に開始を呼びかけたのだった。

 不真面目で不謹慎のようだが、当時としては晩婚で一度結婚しないと周りがうるさいから、というのも無きにしも非ずだった。相手もそうだったようだ。周りがうるさかったと。

 考えようによっては、こんな、取り柄のない理窟屋の娘を貰って下さったことを感謝しなければ、とも思う。
職場の人達からは、平塚からなら通えるだろう。辞めないで頑張ったら、と言われたが、とてもそんなことは相手に言えなかったし、両立などできるはずはないと思っていた。
 
 歌に、青春時代は、道に迷っているばかり、というが、その通りと思います。     
                                                                       (2013,10,13) 



  
 
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by ttfuji | 2013-11-26 23:52 | 家族・身内・私 | Comments(2)

秋晴れ・夫の小旅行

 秋らしい天気が続いていたが、今日は夜になって風雲急を告げるように風雨の強い荒れ模様になった。

 夫は10月まで続いた残暑が漸くおさまると、よく散歩するようになった。夕方、ちょっと出かけてくる、と言っては1.2時間で帰ってくる。初めは、どこかの店への買いものだろうと思っていた。帰ってくると携帯の歩数計を眺め、今日は8千歩しか歩いてないとか、今日は1万歩以上歩いた、とか言っていた。
 週に2・3回は体操に行く。器械を使っての体操である。よく続くと感心する。ある時は、昼前後から、どこへ行くとは言わず出かける。私も予定があって忙しいので、あまり気にしない。大山へ行ってきたとか、日向薬師まで行き、歩いて帰ってきたのでやっぱり疲れたとかいう。本当に疲れ切って様子で帰ってくる。少し歩き過ぎじゃない?、と私もたまにいう。疲れた日の翌日はどこにも行かず体を休めている。
 歩くのに慣れてきたら、四国のお遍路みちを歩いてみようと思うという。いいんじゃない、と答える。
 勿論、一人旅だ。自由気ままが好きな人である。先週の木曜日、あした天気が良かったら、昇仙峡に行ってみようと思っている、と言った。もみじ、きれいでしょうね、と相槌を打つ。
 翌日は少し雲がかかっていた。気分次第と言っていたから、やめるかも、と思っていたら、8時頃起きてきた。いつもは9時過ぎである。今日はどうするんですか、なんて聞かない。干渉されるのを嫌がる。朝食を済ませると部屋に入り身支度し、じゃ、行ってくる、と小荷物で出かけた。
 午前中、家事掃除に精を出した。午後から体操に行った。今日は、遅いお帰りだろうから、夕食も済ませてくるだろうし、簡単なものを用意すればいい、と気が楽だった。
 体操と買い物から4時半頃帰り、そろそろ夕食の準備を始めようと思っている時、電話が鳴った。3時過ぎ、携帯の何度も電話したけど出なかった、留守電にも入れた、という。
 体操中は音楽が鳴り響いていて、バッグの中の音は全く聞こえない。その後も携帯はバッグに入れたままで目を通してない。
 「今夜泊まるから、夕食の準備する前に、と思って早目に電話した」という。折角だからゆっくり見て回ったら、というと、うんそうだね、と言って切れた。電話をチェックすると、3回の着信と留守電には「今日は一泊するから」とだけ入っていた。
 翌日、今、川中島にいる。もう一泊する、という電話。長野を回る心算らしい。ところが、翌日午後、長野の善光寺にいる、もう一泊しようと思う、という電話。下着とか持ち物の用意はあるのかしら、と思ったが、買うなり何とかするだろう、と思い、わかりました、気を付けてと、伝えた。まさか帰宅拒否?ではないだろう。
 ところが、夜8時ごろ、今、松本にいるけれど、やっぱり、今日帰る、携帯の電池も終わりそうだし、という。気を付けて下さいね、とだけ伝えた。それから、松本から、新宿、伊勢原までの時間をインターネットで検索した。何と、長野新幹線経由だと新宿で終電に乗れても途中までしかこない。伊勢原までタクシーに乗れば、何万円もかかる。それなら、どこかのホテルに泊まった方が、いい、と思い、Cメールに入れてみた。通じないようだった。
 10時50分頃、橋本(横浜線)まで来ている、海老名経由で帰る、と電話。中央線経由だと随分早く着くのだった。11時過ぎには帰宅した。連休で旅館がとれなかったとのこと。
 今回、時刻表を駆使しての旅行だったらしい。今まで、時刻表など見たこともないのに、便利だよ、と自慢していた。風呂の用意が出来ていたのを喜んでいた。温泉には入らなかったのだろう。80過ぎて夫は元気だ。
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by ttfuji | 2013-11-25 22:37 | 家族・身内・私 | Comments(3)

自治会防災訓練

 11月20日(水)は、午前中はスイミング。午後1時より自治会主催の「防災訓練」が北公園と自治会集会所で行われた。役員と一般自治会員合わせて30人余りの参加だった。市の消防署や市職員も数名見え、指導していただいた。13時に集会所に集まり、出席確認。屋外で初期消火訓練。天ぷら鍋から出火。消火器で消火する訓練。鍋から炎が上がっている。火事だ!、と大声で叫び、3人ずつ、消火器をもって近づき(近づきすぎない)、消火器の栓を抜きホースの先を火にめがけて、消化液を勢いよく放射する。箱型の中に炎が上がっているが、これは映像か。練習用の装置、消火器も水である。十分な水がかけられると火は消える。
 以前は本物の粉末消火器や泡消火器を使っていたが、風があると薬剤が飛び散り、近隣から抗議がくるため、水になったという。水の為か惜しみなく使えるので沢山用意され、殆どの人が体験できた。

 続いて室内に入り、湯沸かしBOXの体験。4・5人のグループになってBOXを組立て、薬剤で高熱を発生させ湯を沸かすものだったが、私たちのグループは失敗した。粉末薬剤を袋から出して入れるのに、袋のまま入れたのだった。沸いた湯を使って非常食のご飯を作るのだがやかんで沸かした湯を使った。
 湯が沸く間に、三角巾を使った応急救護訓練があった。三角巾のたたみ方も勉強になった。腕をつるすたたみ方とつるし方。膝のけがを保護する包帯の巻き方。足首捻挫の巻き方など、なるほどと思った。知っているつもりでも巻き方のコツがわかってよかった。
 
 最後に非常用保存食の選び方と試食。一人ひとりにアルファー米を配布。湯沸かしBOXで温めたお湯をアルファー米に入れてしばらく置くと出来上がる。おかずがなくても食べられるように、炊き込みご飯や味付けご飯が多い。おこわやお赤飯もある。試食ののち、保存食の選び方や平素の備蓄についても話があり、質疑応答があった。コーヒーやビスケットなどの保存食も頂いた。私は、ご飯には手を付けず持ち帰った。夕食の時、食卓に並べ、試食してもらったが、夫もおいしいと言って結構たべた。山菜おこわだった。
 片づけて帰ったので4時半頃までかかった。
 
 サポーターとしての役目で、読書会を休んでの参加だったが、有意義な訓練だった。






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by ttfuji | 2013-11-21 18:22 | 時事・社会・地域・自治会 | Comments(0)
 11月11日(月)
 月曜日の太極拳は、振替休日だったり、伊豆行きで休んだり、先生の都合で休みになったりで、10月は1回、11月は今日が初めてで5週間ぶりの練習であった。新しい陳式40式はなかなか覚えられない。24式、42式は時々の復習もないのですっかり忘れてしまった。
 11月12日(火)
 午後、整形外科でリハビリ。相変わらず、肩痛のためのマッサージ。丁寧にもみほぐしてくれ、その日は肩も軽く、痛みも薄れたように思うが、翌朝はまた痛みが戻っている。掛け布団がきちんと畳めない。どうしても両腕の力が均等に必要。朝は筋肉を動かしてないので、固いのだそうだ。だから朝が一番つらい。先生もそう言われた。
 20日の防災訓練、当班の参加者を自治会長に電話で報告。回覧に参加希望者は班長に申し込んでくださいと書いてあったが参加希望者はいない。仕方なく出てくれそうな人に個人的にあたり、3人の方が参加してくれることになった。
 11月13日(水)
 晴、のち曇り。洗濯物を沢山干すが、午後になって雲が広がり、一日ではカラッとしない。このところ、毎日こんな日だ。
 今日はスイミングの日。スイミングは腰痛、ひざ痛だけでなく、肩痛にもいいと、整形の先生も仰る。左肩を思い切り回したり伸ばしたりはできないが、初めのころより動かせるようになった。
 11月14日(木)
 晴、午後より曇り。気温下がる。午後、買い物に車で出る。可燃物置き場の掃除当番だったが、夕方、そのことをすっかり忘れていた。夜になって雨。夜、自治会副会長から、プリントの間違いで、16日の防犯パトロールは、明日、15日の間違いだったという。私が11月の当番とのこと。一瞬何のことかわからない。当番表が前もって配られているはずらしいが、もらっていない。改めてポストに入れておくと言われる。あ、明日は妹の介護で出かけるのですが、別の日に代えてもらえませんか、と聞く。いいですよ、都合の悪い人はどうしてもではありませんから、と了解していただく。そうだ、明日は早朝にゴミ集積所の掃除をやらなければ。幸い、妹達の通院は午後からなので急がなくても間に合う。色々、うっかり物忘れが多く、混乱していると感じる。
 11月15日(金)
 雨の予報だったが、止んでいた。昨夜、掃除当番を忘れたことが気になって、朝早く、プラごみを出しに行き、下がったままのネットを巻いてフェンスに括り付け、プラごみの袋をどかしながら、多少散らばっていた、ごみや木の葉を掃いてきれいにした。今日のゴミ当番は誰?、と詮索されず済みそうだ。
 というのは、先日、当番をしないままノートに日付を書いて廻した人がいると気づかれ、ちゃんと見ている人がいるのだから、そういうことをしないように言うべきと班長の私に言ってきた人がいる。お役目と思って伝えたが、嫌な役だった。
 ポストに入っていたパトロールの当番表。よく見ると、集合は夜の7時50分。8時から巡回、ということで、この時間なら私も行ける、と思い、副会長に電話した。よかった、まだ、会長に連絡してなかった、というので、時間通り、集合することした。
 10時過ぎ家を出る。久しぶりに妹の通院付きそい。4人分の昼食を買っていく。
 今日は、妹と夫のJさんが、3つの科を受診するので、付き添いは二人いる。息子のY君が午後早退して父親の受診に付き添い、私は妹の車椅子を押して付き添った。
 何月からだったか、病院が柿生の麻生リハビリ病院から新百合ヶ丘総合病院に変わり、土曜日の受診が可能となった。Jさんはデイサービスに一日おきに行くようになった。土曜日の受診には、息子が付き添えることになった。タクシーやシャトルバスを乗り継がないでも行けるので便利である。今日のように二人の受診というような時は、付き添いも二人要る。私もやむを得ない場合だけ付き添うことになった。

 妹は午後2時の予約だったが,Jさんの方は2時半と3時の予約となっていた。3時の先生が何かの理由で遅れ4時ごろになっても呼ばれなかった。私は、夜、自治会の防犯パトロールという班長としての当番がある。
 班長は1年に一度の当番なので出ることを返事していた。
 そのことは、M子に伝えてあったがこんなに遅れるとは思わなかったから、終わった後、T家に戻ってお茶でも頂いてから帰るつもりだった。しかし、このままでは、遅れそうなので、病院からそのまま小田急バスで新百合ヶ丘駅に行き伊勢原に帰ってきた。

 病院のバス停にいる時、茅ヶ崎に体操に行っていた夫から電話が入り、今どこ、雨が降っているから、伊勢原駅に迎えに行ってあげるよ、という。今、病院前のバス停、こちらの方が時間がかかると思うというと、駅に着いたら電話するようにと言ってくれた。伊勢原に着くと雨は上がっていた。
 しかし、折角の好意を受けることにし、電話すると家に帰っており迎えに来てくれた。ありがたかった。

 8時から、パトロールに参加した。自治会役員さんはいろいろ役目があるものだ。会長、副会長は毎月参加で、理事さんは年2回はある。防犯指導員も毎回参加され感謝する。
 雨が上がり、気温も上がり静かで月もきれいだった。以前、痴漢が出たというところ、出そうなところ、物陰の多いところをパトロールする。3地区に分かれてのパトロールだが、何事もなく、よいウオーキングになった。
 11月16日(土)
 晴れのち曇り。10時にコミュニティセンターへ太極拳の予約に行く。12月16日分で今年最終日なので、引継ぎ事務があると思い、一時間長く申し込んだ。早いもので、もう来年のことを考える時期になった。

 
 
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by ttfuji | 2013-11-16 16:23 | その他 | Comments(2)

メールトラブル

 先日、弟の法事の折、デジカメを持参しなかったことを後悔した。レジカメを持っていた人もいたが、姪がみんなで一緒に撮りましょう、といい、係の人にカメラ(スマホ?)を渡して頼み集合写真をとった。Eメールで送ってくれるように頼んだ。二人の姪の姉のYちゃんが、送れなかったと妹のHちゃんに言ってので、Hちゃんも試してみたが、やはり、送れませんでした、とブログのコメント欄で知らせてきた。メールアドレスの確認もされたが間違っていない。
 しかし、10日ほど前、娘から写真添付で送ってきたのだから不思議だ。
 私のパソコンは、時々気まぐれを起こし、うまく送受信ができなくなることがあるのも事実なのである。
 その場合は、下記のようなメッセージが載る。

「pop.mail.yahoo.co.jp (1) アカウントでメッセージを送受信できません。 メッセージを受信できませんでした。この電子メール アカウントへのアクセスに使用している別の電子メール プログラムの情報が競合しているためです。Windows Live メールを閉じてから、もう一度開き、メッセージの送受信を行ってください。問題が解決しない場合は、保存するメッセージを保存フォルダーに移動し、電子メール アカウントを削除してから、追加し直してください。保存フォルダーが表示されていない場合は、[表示] メニューの [保存フォルダー] をクリックしてください。」

サーバー エラー: 0x800CCC90
サーバーの応答: -ERR problem retrieving message.
サーバー: 'pop.mail.yahoo.co.jp'
Windows Live メール エラー ID: 0x800420CD
プロトコル: POP3
ポート: 110
セキュリティ (SSL): いいえ


 こんな風に警告されても私には対処の仕方もわからない。英語とパソコン用語に弱く理解できない。
 XPとWindows8の2台のパソコンを使ってブログやメールをしているのが原因かと思うが、そんなことはない、5台使っても問題はない、といわれた。いずれXPはお払い箱にするが、まだ、写真編集にXPは必要なのだ。
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by ttfuji | 2013-11-15 22:36 | パソコン・スマホ | Comments(0)
 11月9日(土)正午より、早稲田の寺で次弟の三回忌法要が営まれた。故人の親友一人のほか親族だけの内輪の会だった。
 若い僧侶の挨拶は、二年なのになぜ三回忌というか。亡くなった年を一年と数えるという説明だった。皆さんがこうして集まって下さったのは、亡くなられた方が会わせて下さったのです。今日は、お経を一緒に唱和して故人となられた方を偲んでください。私のお経が終わったら、二人ずつお焼香をして、お経の本を手に取って席に戻ってください、と言われた。
 お坊さんが、お経の話を少しし、ページを示し、一行を読んだ後、皆が次を唱和した。何ページかを声を出して詠んだ後、意味は分からないまま、なんとなく人の生死や因縁、諸行無常について説いているのだろうな、と有難い気持ちになった。若いお坊さんは美声の持ち主でもあった。

 終了後、お斎が用意された部屋に移った。昨年に続いての法要だったが、親類縁者もこんな時でないと、顔を合わせることもない。故人のきょうだいはみな高齢になっており、これが最後かと言い合ったりしている。次、あるとすれば七回忌だが、生きているとしても、来られる状態かどうかもわからない。こんな話をしても、みな納得で、だれの顰蹙を買うこともない。現に、高崎の兄夫婦は、体調悪く来られず、その代り、兄の長男S君が出席してくれた。
 東京在住だが、20年近く会っていなかった。仕事の関係で日本各地に飛び回り、母(甥にとって祖母)の葬儀にも会えなかった。映画やテレビ作りのスタッフで舞台作りや照明、クレーン操作や撮影の助手など何でもこなし、最近の作品では、101歳で他界した詩人、柴田とよさんの『くじけないで』や『8日目の蝉』などかかわり、映画の最後に制作にかかわった人の名前が延々と続くがその中に名前も出ているそうだ。
 以前、兄から聞いた時には『ハチ公物語』『北の大地』など、そのほか沢山の作品に一応名前が出ていると言っていた。兄や嫂さんに聞くと、仕事のついでに、実家へ寄ることはあり、この間も寄ったなど聞いている。
今度のことも、弟の3回忌の知らせにどうしようかと迷っている時、S君が寄り、代わりに出ると言ってくれたそうである。
 亡くなった弟の娘二人も、従兄との再会を喜こび懐しんでいろいろ話が弾んでいた。

 帰りは、方向が同じということで、M子の息子のY君の車に同乗し、4人で帰ってきた。こちらも、長男の息子と次女の息子で従弟同士だった。S君は狛江で下り、私はよみうりランド駅前で下してもらった。

 我が家では、先週の土曜日、夫の姉の納骨と49日法要があり、2人で両方出るのは大変なので、一人づつ分担にしたのでした。
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by ttfuji | 2013-11-11 15:19 | 家族・身内・私 | Comments(5)

行事がダブル

 11月9日(土)、弟の三回忌法要と郷土史研究会。
 11月15日(金)、妹の通院付き添いと体操の会。
 11月20日(水)、自治会防災訓練と読書会。
 今月は、3回もダブってしまった。どちらも大事な役割があるが、片方は趣味的なサークルであるから、欠席することになる。ところが、気持の中は、欠席したくない気持ちが強い。特に読書会は、当番でもあり少ない人数なので進行と記録と前回のまとめを配れず迷惑をかけることになる。何より話し合いが楽しい。自治会の班長を受けているため、訓練の参加者を募らなければならない立場なので、放棄するわけにはいかない。明日の法要も趣味に比べれば、優先しなければならないこと。

 皆さんが、当然と思ってやっていらっしゃること。私は未練に思いながら納得し選択している。

 ついでに今週の日記。
 月曜日は振替休日で太極拳なし。
 火曜日は、整形外科でマッサージ
 水曜日、スイミング。夫は大山登山
 木曜日、図書館行きと美容院でパーマ
 金曜日の今日は、2週間ぶりの体操があった。左手が痛いので思い切り腕を伸ばせないがその他の部分は  ストレッチとリハビリができた。
 
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by ttfuji | 2013-11-08 21:40 | その他 | Comments(2)
 今日から肩痛のリハビリを受けることになった。
 10月3日から毎週木曜日、肩痛治療に整形外科に通って、ヒアルロン酸注射を受けていたが、痛みは一向に去らず5回で注射は打ち切った。
 先週、先生は、注射液は粘液状なので、たまに、それが固まったり身体に同化しない場合があり、痛みを訴える人がいるという。
 そこで今まで受けるのを躊躇っていたリハビリを受けることにし、先週は注射のあと電気治療をうけた。低周波ともう一つは忘れたが10分づつ2種類の電気治療を受けた。
 今日は筋肉の硬直をほぐすマッサージを受け始めた。火曜日の午後の通院となった。火曜日は、眼科や歯科が何か月おきに予約されるが、殆どが午前中なので都合はいい。
 丁寧にマッサージをして頂き、大分楽になったが、矢張り毎週続けることになる。
 若い男性治療師だったが、その先生は埼玉から来ており火曜日しか来られないとのこと。丁寧だったし質問したことにも適切にこたえてくれるので、同じ先生でお願いしたいと思った。

 リハビリは混んでいて待ち時間が長いと聞いていたが、完全に予約制で時間通りにやって下さるので、早く受ければよかったと思った。その先生は、肩の使い過ぎ、というような言い方をしたが、つまり加齢も一因でもあるということかもしれない。そんなに働き者ではないのだが。

 午前中は、自治会費後期分、集金したものを会計理事さんにお届けした。
 
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by ttfuji | 2013-11-05 18:39 | 医療・健康 | Comments(0)
 第7戦までもつれた日本シリーズ、楽天・巨人戦は、最高の形で終わった。
 6戦目、マー君の登板でまさかの敗戦を喫した時は、やはりだめかとがっくりきたが、やはり、執念が強かったというか、最終戦では美馬投手が無失点で6回まで投げ、則本投手も無失点で7・8回を投げ、そのまま、則本投手で行くかと思ったが、前日、160球投げ、しかも打たれているマー君がマウンドに上がった。応援の声援はすごかった。
 期待と不安が混じったが、やはり最後は彼しかないだろうと祈りに変わった。
 ファンも解説者も、星野監督と同じ考えだったようで納得した采配だったようだ。マー君も出してほしいと切望したという。二人のランナーを出したが、最後の打者を三振にとり日本一をつかんだ。

 考えてみれば7戦まで行ったこと、6戦でマー君が打たれて負けたこと、巨人も調子の出ない選手がいたこと、すべてが神の采配だったような気がする。
 最高に素晴らしい、ドキドキハラハラした面白いシリーズだった。則本選手が1敗したとはいえ、3回も登板し大きな貢献をしたのに、何の賞もなかったのが、気の毒な気がする。
 敗軍の将の原監督が、G軍を発展途上、とコメントしたと聞き、胸が痛んだ。原監督の高校時代、大ファンであった。
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by ttfuji | 2013-11-04 12:36 | 趣味・雑学 | Comments(0)