私の生活や自分史・読書、旅などの記録


by ttfuji(トコ)

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  今月の郷土史研究会は4月12日(土)に行われた。
 毎月記録しているのに、今月は書き忘れていた。後々のためにもやはり記録して置かなければと思い立った。 
 講師は、小林克則先生。高校の世界史の先生だった方で、教科書作成にも係って来られた。郷土史には珍しく、今回は世界史でしかもイスラームの話だった。先生には著書もいくつかあるという。 

 『イスラームの創生と女性たち』という演題であった。
 
   皆さんは、「イスラム教」というと、どんなことをイメージしますか?、とまず前列の参加者たちに問いかけていった。
 礼拝、武力、モスク、マホメット、ビジャガ(身なり、ふん装)、宗教戦争という答えがあった。テロとか過激な制裁とかの答えがなかったのは、意外だったと言われる。
 現在の世界のイスラーム教徒の人口は16億人くらいという。
 最近の高校世界史教科書では「イスラム教」ではなく「イスラーム」と表記している。教を付けないのは政教分離が基本にされるようになったためだそうだ。
 なお、「イスラーム」とは元来、「自分のすべてを誰かにゆだねること」を意味する。「アッラーへの絶対帰依」を意味する。アッラーとはアラビア語で、唯一絶対神をあらわす。男性イスラム教徒はムスリム、女性イスラム教徒はムスリマと呼ばれている。
(2)イスラームの成立と背景
(3)  ムハンマドの生涯
 ※ ムハンマドの誕生と結婚
 ※ ムハンマドの召命
 ※ ムハンマドの宣教と迫害
 ※ ヒジュラ(イスラム歴)
 ※ ムハンマドの死
(2)以後について詳しい説明があったが、レジュメを写しても仕方ないので割愛する。
 ムハンマドは、570年頃にマッカで生まれたが、子供の頃、父母を早く亡くし、祖父や伯父に育てられたが、成長して誠実な商人になった。25歳の頃15歳ほど年上の裕福な寡婦ハディージャと結婚し、多くの子どもも生まれた。男の子はみな早世したが、女の子は4人が成人した。
 ムハンマドは40歳の時、籠ることが多かったマッカ郊外のヒラー山の洞窟で、突然光り輝くものに締め上げられて「読め」と迫られた。以後、彼にはたびたび神の言葉が、ジブリール(大天使)を介して啓示されるようになった。
 妻のハディージャは一貫してムハンマドを保護し励まし、最初の女性信者(ムスリマ)になった。ムハンマドが啓示として受け取った言葉は、のちに『クルアーン(コーラン)』としてイスラームの聖典となった。
 ハディージャの死、保護者の死などあり、ムハンマドにも宣教と迫害はあった。
 ハディージャの死後、ムハンマドは生活の不自由もあって再婚を勧められ、10人の女性と結婚した。アーイシャ以外はすべて寡婦であった。コーランの教えに従って妻を平等に扱っていたが、臨終直前に他の妻の許しを得てアーイシャの部屋にとどまり、そこで亡くなった。埋葬はアーイシャの部屋でなされ、現在は預言者モスクになっている。
 一夫多妻制は、寡婦の救済でもあり社会制度上必要であった。

 現在、私は、イスラームにあまり良い印象を持ってないが、それはどの宗教にも言えることだが、宗教は本来平和や心の安寧をもたらすもののはずが、宗派の争いばかりしている。反対派や敵対国に対してテロもいとわない。女性の地位を貶め、教育は要らないなどという。
 創始者は、きっとこんな世界になることを思ってもいなかったのではないか。
 


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by ttfuji | 2014-04-29 18:28 | 郷土史・講演会・学習 | Comments(0)
 昨日、体操から帰って夕食の用意をしている時、チャイムが鳴り、出ると、Oさんが「アポなしでまた持ってきちゃった、食べてくれる?」、と筍を車から下しながらいう。勿論喜んでいただく。
 先日、12日も沢山頂き、近所の友人にもあげて喜ばれたと話す。丁度、向かいのYさんのお嬢さんが、学校から帰ってきたところだったので、呼び止め2本の筍をOさんの前で差し上げる。お母さんも出てきてお礼をいわれる。先日頂いたものより一回り大きい。そういえば、昨年もYさんにおすそ分けしたのだった。夕食は、もうできていたので夕食の膳には上がらなかった。
 前回は、米ぬかがなく、お米の研ぎ汁とお米一握りを使って茹でた。しかし、今回はお米を無駄にせずぬかを使って茹でようと、朝スーパーに行ってお米5㌔の精米をしてもらい、買い物もして、ぬかは頂く。自分のお米から取れた糠だけでなく、必要な分もサービスしてくれる。糠床を作るほどは無心しないが。
 その足で、Oさんに筍と糠を届ける。昨夜電話しておいた。午前中、美容院でパーマをかける。パーマは年に2回ほど軽くかけて頂く。
  
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by ttfuji | 2014-04-26 19:13 | 生活雑記 | Comments(0)

今週一週間は

 家というより国や世界にいろいろのことがあった。
 韓国では、16日、旅客船の事故があり修学旅行生など、300名以上が犠牲になった。まだ行方不明者を含めての数字だが。遺族の悲痛はどこも同じで心が痛む。
 国内では、23日から25日までオバマ米大統領の来日、滞在された。物々しい警備態勢が敷かれたが世界中にテロが横行している時代、致し方ないのだろう。
 日米安全条約確認など首脳会談が行われたが、tpp問題の交渉が最大の目的だったと思う。歩み寄りで一致、大筋合意の可能性が見込まれたが、合意には至らなかったようだ。交渉担当者は、いくら上から、まとめるように言われても、日米双方、国民生活や生産者に直接響く問題だけに安易な妥協はできないと思う。甘利担当大臣の疲れ切った顔が物語っている。
 国民の目は、夕食会、宮中晩さん会に関心が向けられたように思う。
天皇・皇后のお疲れも大変だと思う。その前にも園遊会もあったし、事前の勉強もおありだと思うし、しかし大勢の人にお会いになるのはきっと楽しんでいらっしゃると思う。
 三井の大型運搬船が、中国の裁判所で差し押さえられる出来事もあった。なんだか日本が世界中から攻撃されているようにも思える。
 北朝鮮の核実験も。考えても仕方がないことばかり。

 今日は体操の会で、12時から、昼食会があった。役員が先週から準備してくれたが、おすし折詰弁当とお菓子など盛り沢山でおいしかった。ぜリーや寒天菓子の手作り差し入れもあった。26名の参加で賑やかに楽しいひと時だった。
 そのあと、会場を片付けいつもの練習が行われた。
 昨日の整形外科行きで、痛み止めの注射が効いているのか、左手も良く上がり痛みも少なく練習できた。炎症が痛みの原因でもあるから、注射も必要といわれた。楽しむことはいいことだ。
 
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by ttfuji | 2014-04-25 23:30 | 時事・社会・地域・自治会 | Comments(0)
 大江健三郎氏の本を読むようになったのは、ノーベル文学賞作家として大いに話題になり、読書会で『静かな生活』を読んだのかきっかけだった。その前に、東大の大学生が、在学中に芥川賞受賞し、その後も何冊も書いていることもニュースとして若い頃から知っていたが、難しそうといわれ、手に取ることはなかった。

 『静かな生活』は著者の生活が、そのまま投影されていると思われ、それが長女の目で描かれ、親近感と生意気にも結構困難の多い生活に同情を感じた小説だった。
 大先輩の松山出身の会員が、大江さんとは同郷、光さんもいらっしゃることだし、ノーベル賞を受賞して将来に役立てることが出来るでしょう、といわれたのが印象に残っている。
 それ以来、何冊も(10冊以上?)読んだ。妻のゆかりさんの絵で更に惹きつけられた。『回復する家族』、『ゆるやかな絆』、絵入りのエッセーで家族のことが理解できた。
  芥川賞をとった『飼育』と同じ本に収められた『死者の奢り』なども読んだ。『万延元年のフットボール』もその頃に読んだ。『個人的体験』『取り替え子』も読み大江氏とかかわりの深かった人達(必ずしも友人や味方ではない)人達のことやテロに狙われていたことも知った。『自分の木の下で』や『2百年の子ども』も手元に置きたい大切な本として本箱に並んでいる。
 私小説といわれ家族小説といわれるが、障害を持って生まれた、長男光さんが家族の中心にいて、支え合っているところは、心を打たれる。
 光さんの誕生で、打撃を受け、そこから目をそらし、育つはずがないという状態に期待を持つ、という心の相克に苦悩することも多くの著書に書いている。逃避のように広島に行き、広島病院の著名な医師に叱られ諭され、自分の過ちに気づき深く反省することも何度も読んだが、やはり胸を打たれた。
 光さんは、2・3歳の頃のある日突然、山道を散歩している時に野鳥の声を聴いて「クイナです」とNHKアナウンサーの口調で言葉をだしたという。その後、絶対音感の持主となり、沢山の作曲をしたことは多くの人の知るところである。


 タイトルに書いた、『晩年様式集』のことを書くつもりでいたが、前置きが長くなりました。
 この本を書くきっかけは、78歳の大江氏が、最晩年にあることを自覚し、人生の集大成として、今まで書いた著書の総括的なものを書こうとしたのではないだろうかと感じる。  残りを80歳までの年数としてあと2年と数える。私は大江氏とほぼ同年代(1歳違い)で、同じような感慨を持っている。私の場合は何の実績もないですが。

 ところが、それを知って、四国に住む著者の妹、セツ、著者の妻、千樫、著者の娘、真木の3人の女たちから、多くの小説でモデルにされながら、実際とは違う書き方をされた。私たちの言い分も聞いて!、と抗議が来た。

 そんな時、東北の大震災が起きた。大江氏(長江古義人)の家も大きな影響を受けた。壁面を天井まで覆っていた書棚がくずれ、床は足の踏み場もないほど本が堆積した。光さん〈この本でアカリ)の部屋もCDや楽譜、様々のものが散乱した。茫然とするよりなかった。
 しかも、大きな余震も繰り返した。テレビに繰り返される津波の映像にもショックを受けた。それにもまして、原子力発電所の爆発に打ちのめされた。
 夜中、長江は「ウーウー」と泣き、アカリが「大丈夫ですよ、夢だから、夢を見ているんですから!、なんにも、ぜんぜん、恐くありません!、夢ですから!」と父親の脇で語りかけた。
 アカリ自身も放射能の汚染に恐怖を抱いている。アカリには空中にいる自分の守護神のようなアグイーが放射能に汚染されないか心配でならない。持病の発作にも見舞われた。

 長江はウツになり、寝酒に溺れる。セツから四国で暮らす呼びかけが来た。取り敢えず真木とアカリが先に住んだらどうかと言う。
 
 アサは兄とは2歳違いで、子ども時代いつも兄と行動を共にしたが、森を歩き回り不登校の時は森で過ごした。祖母や母から聞く、古くから伝わる伝承で「森のフシギ」の信奉者だった兄にアサは影響をうけることはないリアリストの女の子だった。
 成人するとアサは看護師となって働いた。長江の理解者で故郷の人々との仲立ちや帰郷の際の身の回りの世話など常にサポートした。長江の家族、特にアカリや真木のことも家族同様にサポートした。羽田空港と松山空港は、日常的に利用する行き来の交通手段だった。
「3人の女たちの別の話」は㈠,㈡、㈢、⑷まであり3人が原稿書く形で、言い分や間違いの訂正を求めて書いただけでなく折々のエッセーの様に書いたものは、私家版『晩年様式集』として雑誌となって発行される。その中に古義人も勿論書く。
 
 大江さんは、3.11後、ウツの状態の時でも、講演やテレビに出ることも多く、「九条の会」の発起人の一人として行動し、原発反対のデモにも参加している。福島の原発事故、放射線汚染や汚染水など、次々に起こるトラブルに怒り、原発の技術をインドに輸出しようとしている安倍総理に怒っている。また自衛隊を派遣できるようにする憲法の改定に怒る。こんな大江氏に日本人として行動しない私は恥ずかしく頭が下がる。

 話があちこちに飛び紛らわしいが、以下のことは大江家と長江家と区別がつかない。フィクションなのかノンフィクションなのか・・?。
 大江さんの作品に何回も出てくるギー兄さん。四国の山奥の森のへりに住んでいたとき、森の中をうろついたり、木の上に憩いの場所を造ろうとしたとき、アドバイスしてくれ、生き方についてもいろいろ教えてくれた10歳くらい年上の先輩であったが、何年か後、事件を起こして刑務所に入ってしまう。その後出所してきたが、以前のような付き合いは復活しなかった。その後、自殺してしまうが本当に自殺かどうか噂が流れた。
 それ以前に、大江の父が水死をしている。自死と言うことになっているが、ギー兄さんは父の死を救えなかった大江少年を叱ったという経緯があった。

 震災後の長江家にギー・ジュニアがやってくる。ギー兄さんの息子である。長江は大喜びで歓迎する。アメリカで報道関係の仕事をし、プロジェクトをくむ仲間もいた。震災の後の片付けなど手伝いながら、父のことを教えてほしいという。一緒に暮らす母から1冊の本を渡され父親のことが書いてあるから、読んでみたらと言われた。日本語の本には不慣れで漢字を教えてもらいながら読んだという。
 長江は、記憶していることを話す。ジュニアはアメリカに帰るが、一時、音信不通になる。父の死について書かれている『懐かしい年への手紙』を読み、もっといろいろな本を読みたいと読んだ本は、父を侮辱したものに感じられた。疑問を正そうと、その後、再来日。セツさんの詳しい説明に、誤解も解け、感謝の言葉を伝える。四国のギー兄さん(父)の屋敷に仕事の拠点を移す。
 アカリと真木はアサの家に移り音楽の先生、リッちゃんの指導を受け、作曲などもしている。散歩も良くし、陽に焼けて健康になった。

 この本を読んで感じたことは、読んで良かったということ。まとめにくいが、物忘れの年齢になっている私には、備忘録の意味も持つ。
 大江さんは今までの著作についても何冊かを取り上げ、書いた動機やエピソードなど書いている。
 この本に出てくる本の中で『取り替え子』は、親友であり妻の兄にあたる、伊丹十三氏の自殺のことを書いている。大きな苦しみと悲しみ、喪失感が伝わった。十三(塙吾郎)がパリに滞在した折、親しくした娘がいた。『取り替え子』を読んだ時、私が嫌な感じをうけたシマ浦という娘。その人が、すっかり大人になって、吾郎のことをもっと知りたい、と長江家にやってきた。スイス人と結婚し、看護師になっており、日本へ来るときは通訳的な仕事も兼ねている。しかし長江家は彼女に大いに助けられる。

 大江さんは、最後に詩を載せている。大江さんのこれまでの人生の思索の集大成という気がする。全文写しておきたいが、長いので割愛する。そこで、初めて孫が生まれた喜びを書いている。
    生まれてくること自体の暴力を
    乗り越えた、小さきものは
    まだ見えない目を 固くつむっている
    初孫に 自分の似姿を見て
    近づける 顔の気配に
    小さなものは泣き始める・・・
     (中略 約100行)
    誕生から一年たった
     (中略 約30行)
    私は生き直すことができない。しかし、
    私らは生き直すことができる。

 孫とは次男のお子さんだろう。ギー・ジュニアと真木さんの結婚をほのめかせるところも最後の所にセツの文章の中で書かれている。
 次男氏のことは、『静かな生活』や『「新しい人」の方へ』には理系頭脳の弟として出てくる。ずっと家族を支え協力してきた。
 真木ちゃんが必死でこれ以上書くな、と止めたらしい気配がある。一般人として生活している弟をパパの小説や著作物に登場させるべきではない、と考えていると思われる。
 アカリさんは穏やかな性格だが、パパからの抑圧を感じている。たまに耐え切れずCDやラジオの音を大きくして感情を暴発させる。家族全員が、純粋で繊細な神経の持ち主だからお互いへの気遣いも伝わってくる。
 読みながら読者の私さえ神経を使うので、読了に、ほっとした。読後感の記録はしばらくは何も書けなかった。
 この本のキーワードと思われる言葉を太字にしました。   
 


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by ttfuji | 2014-04-23 23:09 | 読書・読書会・図書館 | Comments(0)

同窓会の案内

 4月の初めに、短大同窓会の案内が来ていた。高校も小中学校ももう同窓会は打ち切りになっている。
 5年前、短大の同窓会の通知を頂き、恐らくこれが最後だろうから出てみようと前橋の友人Iさんと話した。
 ところが、母の3回忌法要が一週間違いで行われることが分かり、2週間続けて高崎行きは無理なので欠席にした。友達も残念がってくれたが、もしもう一度計画されたら、次回は必ず出席すると約束した。出席の返信はがきはすでに出した。
 同窓生も年々少なくなっている年齢なので、会いたい友達も何人かいる。
 5月24日(土)、高崎駅のホテルメトロポリタン高崎で夕方4時から総会・懇親会が行われるが、当日は末妹の家に泊めてもらう。
 終わったら電話すればなん時でも駅まで迎えに来てくれることになっている。翌日は兄の家に連れていってもらうつもりだ。この妹にはいつも世話になっている。

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by ttfuji | 2014-04-20 22:43 | 友・師・人 | Comments(0)
 昨日、15日火曜日の通院であったこと、頸動脈エコー検査のことと、薬をジェネリック薬品に変えたことをかなり長いブログに書いた。送信のクリックしたが、画面が変わらない。クリックを繰り返すと、突然、グーグルの画面に変わった。一瞬焦り、どうしたらブログの編集画面に戻るかキーを眺めたがわかるはずもなく、下欄バーのインターネットのボタンを押してみた。ブログ画面に変わることはなかった。以前、そこをクリックして戻ったことがあった。時間が遅いこともあり、もう一度書き直す気にはなれなかった。
 消えた記事をもう一度、再生する方法はないのだろうか。

 頸動脈のエコーについては、1年ほど前に、梗塞があるといわれ、EPA製剤の服用と半年毎の検査を勧められ受けたもので、梗塞はあるものの、大きくなっていず、薬の効用とのことで服用は続けることに。
 一般診察は2か月毎、薬は何種類か処方される。その薬について、調剤薬局でジェネリック薬品のこと、知っていますか、と聞かれた。関心はあります、変えてもいいと思っています、カードも記名したのを持っています、と答えると、すでに揃えたものをすぐ交換できるという。市の方からも勧めるように言われているという。1割負担の私でも700円安くなるそうだから、市の医療費負担も6300円も節約になるわけだから、財政赤字に少しでも貢献できるのはいいことだ。ただ、後発薬品が名前こそ違え、色や形状が似通っているのが、偽物という感じを与えなくもない。そんな風に感じる私が間違っているのだが。
 8時半の検査、内診、薬局が終わったのはお昼近かった。
 午後は、整形外科で肩のリハビリがあった。私の火曜日は通院にあてられることが多い。

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by ttfuji | 2014-04-19 22:26 | 医療・健康 | Comments(2)

嬉しい知らせ

 たった今、パソコンを開くとうれしいメールが届いていた。T家の長男Hさんからで、待望の赤ちゃん誕生の知らせだった。わが家のことのようにうれしい知らせだ。
 Jさん、M子とも高齢で病身だが、長男の結婚が決まったとき、赤ちゃんが出来たと分かったとき、Jさんは涙を浮かべて喜んだと聞いている。
 私も昨年の秋に、予定は来年の4月と聞いて、どうか元気な赤ちゃんを、と祈っていた。勝手に人に話すのも躊躇われブログにも書かずにいた。
 メールでは、4月16日、午後4時の誕生で、3400グラムの元気な男児、母子ともに元気とのこと。何よりです。
 返信でお祝いの言葉を伝え、花束代わりに、庭のチューリップの写真を添付した。
 

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by ttfuji | 2014-04-17 15:50 | 家族・身内・私 | Comments(2)

日記 この一週間 

 私の小旅行や夫の旅行でのんびりできると思ったのに、思わぬ忙しい一週間だった。
 火曜日は溜った新聞の整理と、山のように出された洗濯もの。満杯の冷蔵庫の整理を兼ねた保存食作り。
4月9日、水曜日はスイミングと読書会。
 10日、木曜日は図書館行きと肩痛のヒアルロン酸注射。
 11日、金曜日は体操。夫は金曜日の夜、旅から疲れた様子もなく帰ってきた。随分広範囲に行動したようだ。2回ほど電話があったが、和歌山にいるというので、聞いた時は行かないと言っていた熊野古道にも行ってきた由。電話の度に、まだまだ元気、元気と繰り返していた。
 12日、土曜日は、午前中、郷土史研究会があるので、食事の用意だけして夫が寝ている間に出かけた。これもいつものこと。会が終わってからいつもの4人で「さくら」というおすし屋さんで昼食。
 夕方、5時半頃、日向のOさんからCメールで、玄関前に筍を置いてきました。面倒でしょうが煮て食べてくださいとある。見ると掘ったばかりの筍が7本も入っている。迷惑どころか大喜びである。夜、電話すると、お通夜に行って今帰ったところと言う。夕食の用意は済ませてしまったので、明日煮ることに。
 翌、13日、日曜日、YさんとNさんに筍を2本づつおすそ分けする。初物と言って喜んでくれた。Yさんが、頂き物と言って、タラの芽と明日葉(これは庭に生える)を届けて下さる。   

 午前中、3本を大鍋で茹でる。今日はたけのこづくしの献立。ご飯に煮物、若竹汁、エビ、タラも芽と明日葉、たけのこの天ぷら。ほうれん草のお浸し。
 闘病中のkさんが夜、今日は声が出るので電話しました、白のライラックが咲いたので,Yさんと見に来て、といわれる。

 夜9時頃、娘がカギを持たずに出かけてしまい、あとから出かけた息子のTが今日は友人宅へ泊るので家に入れない、と言う電話。仕方なく実家に泊まりに来ることになった。 夫が駅まで迎えに行った。私は、夜の運転は苦手である。
14日、 月曜日、太極拳に行くとき、まだ寝ていた娘に、たけのこご飯や筍のおかずがあることを伝え、タッパーにも孫用に用意しておいた。沢山作る習性が役に立つ。
 昼頃帰ると、娘も帰るところで、夫に送ってもらうつもりだったらしいが、私が駅まで送った。
 昼食後、YさんとKさんのライラックを見せてもらいに行き、ベットに休んでいるKさんに会うことは遠慮したが、ご主人の案内でKさんを見舞った。近所に住む親しい、もう一人のKさんもご一緒した。
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by ttfuji | 2014-04-14 23:33 | 友・師・人 | Comments(2)

庭のチューリップ

 いつの間にか、水仙、ヒヤシンスの花は終わり、チューリップが花盛りだ。
 庭のことは夫にすべて任せているので、この点は感謝している。たまに口を挟むと何もしない癖にと怒られる。
 夫は花を咲かせる人、私は写真を撮りブログに載せるだけである。
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by ttfuji | 2014-04-11 10:50 | 自然・花・景色・庭 | Comments(0)

夫は奈良へ

 私が伊豆旅行から戻ると、夫は予告通り出かけていた。机の上にメモが。
お帰りなさい。出かけます。最初は奈良に泊まります。その後は天気と疲れと相談して決めます。
   なんとなく春になりぬと聞く日より心に掛かるみ吉野の山
 この短歌夫の作だろうか。なかなかやるじゃない、と思った。なんとなく春になりましたね、と気象予報士が言っているのを私も聞いている。

 夜、電話がかかり、メール送ったけど届いた?と聞かれた。タブレットを持って行ったので、宿でも行先でも何でも検索できて便利だという。パソコンへのメールなので、まだ見ていないと答えた。いつ帰るか、など聞かない。寅さんといっしょだ。楽しんでください、無理しないで、とだけ言った。夜中に、メールのことを思いだしパソコンを開けた。<今、奈良に着いた。明日は長谷寺に行くつもり。このメール届くかな。。>と書かれ、タイトルは「テスト」となっていた。
 携帯電話の時はメールもらったことはなかったが、難渋していたタブレットに漸く慣れたようだ。
 届いていますよ。室生寺や談山神社も桜きれいじゃないかしら、と書き、余計なお節介でしたね、お元気で。と返信した。
 2日後の9日の夜、和歌山にいると電話。熊野古道にはいかないが○○(聞き漏らした)へ行くという。まだまだ元気だから、と強調する。弟夫婦が、京都にいる。一緒に食事でもしようとメールで誘われているが、高級ホテルにいく恰好ではないからなぁと躊躇している。別に構わないのじゃないの、と思ったが、外で会ったら、とだけ言った。
 あちらは、いつも夫婦一緒、こちらはいつも別々。世間体は悪いが、その方がいいと決めたのだから仕方がない。3年前、旅に出る、と言って出かけた後、何日も音信不通の時は、本当に心配した。携帯は持っていなかった(持つのを嫌がった)。娘に捜査願いだすと言ってやったら、と言われた。
 それ以来、携帯を持ち、電話を入れるようになった。束縛されるのが何より嫌いなのだ。
 とにかく、お互い楽しく生きようということにした。病気や困った時にはSOSを出し合う。食べ物の要求はほどほどに、元気で楽しんでくれれば言うことはない。

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by ttfuji | 2014-04-11 09:31 | 家族・身内・私 | Comments(0)