2011年 11月 06日
次弟を見送る 末弟に送られる |
すべてが終わって昨夜、松山から来た弟の車に乗せてもらい帰ってきた。電車で帰るからというのを、荷物も多いし、明日は日曜だから急ぐ旅ではないと、送ってくれたのだった。
その前に、昔、住んでいた、横浜若葉台の住宅群も見ておきたいと、東名から下りて車を走らせた。松山に転居するまで、私も数回訪問しているので、興味があった。
高層の分譲マンションは、その頃の何倍も増えていて、以前の号棟を探すのも大変だったが、漸く目印になるものを見つけて、探し当てた。
当時丘陵の雑木林だった所も整地されてマンションが建ち、隣接の青葉台、霧ヶ峰と一帯になって日本で有数の住宅群を形成していた。
当時から付き合いのあった人達もだんだん疎遠になり、年賀状の続いている人は2・3人とのこと。窓から懐かしんで、すぐにUターン。再び東名高速に入り、厚木で下りてわが家に立ち寄った。30年ぶりの再訪だったが弟は道をよく憶えていた。
義妹は、私と着るものの好みが似ており、私の着たものを喜んで着てくれるので、そのことを言うと、お姉さんのものなら、是非頂きたいと言ってくれたので、バザーに出す前だったらもっとあったのにと残念に思った。それでも残しておいたものにも新品近いものもあり、持ち帰ってくれた。
早速、秋物のワンピースを喪服から着替え、このまま名古屋の実家へ寄ります、母は、私がおしゃれするのを喜びますから、という。
夫の入れたコーヒーだけのんで、精進落としのお料理全部頂いたので、お腹が空いてないからと言って帰って行った。車で12時間もかけて来たのは、帰りに寄り道する予定があったからだった。
前後するが、通夜の夜は、5人が中野プラザホテルに泊まった。斎場とは最も近いと言うことで、選んだホテルだったが、行きにちょっと迷った。
末妹が運転、末弟がナビを勤めたが昔と違った道路事情に戸惑ったようだ。あっという間に、新宿に入り、引き返した。
このホテルで松山の弟夫婦は結婚式を挙げている。
通夜、告別式とも多くの人が訪れてくれた。亡くなった弟の高崎時代の同級生や働いていた三軒茶屋商店街の仲間、自称(悪友仲間)の人達も懐かしんで昔を語って下さった。
次弟の娘、二人も良き伴侶に恵まれ母を支えている姿を見、弟も後顧の憂いなく旅立たれたのではないかと思う。
すぐ下の妹は、体調が悪く、代わりに大阪に転勤した長男が、両日とも出席した。
ちなみに、夫も両日とも出席した。
通夜の日、夫に身内なんだから先に行って手伝ったらと言われ、2時間も早く出かけたが、前の葬儀のお食事が済んでないので、5時頃来て欲しいと葬儀社の人に言われ、喫茶店を探して未知の道を歩いた。青梅街道に出て、人に尋ねると、喫茶店は信号2つ先にしかなく、今更戻れず、歩いたため足の裏にマメができた。ウオーキングシューズでないので辛かった。
後日掲載の写真(20012,2月)記録として載せる。
中野プラザでの朝食、兄弟姉妹の写真と私(遺影用に自分で撮る)
その前に、昔、住んでいた、横浜若葉台の住宅群も見ておきたいと、東名から下りて車を走らせた。松山に転居するまで、私も数回訪問しているので、興味があった。
高層の分譲マンションは、その頃の何倍も増えていて、以前の号棟を探すのも大変だったが、漸く目印になるものを見つけて、探し当てた。
当時丘陵の雑木林だった所も整地されてマンションが建ち、隣接の青葉台、霧ヶ峰と一帯になって日本で有数の住宅群を形成していた。
当時から付き合いのあった人達もだんだん疎遠になり、年賀状の続いている人は2・3人とのこと。窓から懐かしんで、すぐにUターン。再び東名高速に入り、厚木で下りてわが家に立ち寄った。30年ぶりの再訪だったが弟は道をよく憶えていた。
義妹は、私と着るものの好みが似ており、私の着たものを喜んで着てくれるので、そのことを言うと、お姉さんのものなら、是非頂きたいと言ってくれたので、バザーに出す前だったらもっとあったのにと残念に思った。それでも残しておいたものにも新品近いものもあり、持ち帰ってくれた。
早速、秋物のワンピースを喪服から着替え、このまま名古屋の実家へ寄ります、母は、私がおしゃれするのを喜びますから、という。
夫の入れたコーヒーだけのんで、精進落としのお料理全部頂いたので、お腹が空いてないからと言って帰って行った。車で12時間もかけて来たのは、帰りに寄り道する予定があったからだった。
前後するが、通夜の夜は、5人が中野プラザホテルに泊まった。斎場とは最も近いと言うことで、選んだホテルだったが、行きにちょっと迷った。
末妹が運転、末弟がナビを勤めたが昔と違った道路事情に戸惑ったようだ。あっという間に、新宿に入り、引き返した。
このホテルで松山の弟夫婦は結婚式を挙げている。
通夜、告別式とも多くの人が訪れてくれた。亡くなった弟の高崎時代の同級生や働いていた三軒茶屋商店街の仲間、自称(悪友仲間)の人達も懐かしんで昔を語って下さった。
次弟の娘、二人も良き伴侶に恵まれ母を支えている姿を見、弟も後顧の憂いなく旅立たれたのではないかと思う。
すぐ下の妹は、体調が悪く、代わりに大阪に転勤した長男が、両日とも出席した。
ちなみに、夫も両日とも出席した。
通夜の日、夫に身内なんだから先に行って手伝ったらと言われ、2時間も早く出かけたが、前の葬儀のお食事が済んでないので、5時頃来て欲しいと葬儀社の人に言われ、喫茶店を探して未知の道を歩いた。青梅街道に出て、人に尋ねると、喫茶店は信号2つ先にしかなく、今更戻れず、歩いたため足の裏にマメができた。ウオーキングシューズでないので辛かった。
後日掲載の写真(20012,2月)記録として載せる。
中野プラザでの朝食、兄弟姉妹の写真と私(遺影用に自分で撮る)
by ttfuji
| 2011-11-06 14:39
| 家族・身内・私