2016年 01月 31日
末妹が急逝 昨日初七日 |
1月23日の土曜日午前中、振替でスイミングに行っていた。2時半頃、松山の弟から携帯に電話が入った。メール見なかった?、と聞かれ見てない、どうしたの?と聞いた。陽子が、膵臓癌で末期、手遅れで手術もできないという。娘のT子から私に何度も電話したが留守なので、弟に掛けたとのこと。次妹の雅子には弟から知らせたという。
信じられなかった。一番若い元気印の妹が膵臓ガンに侵されるなんて。どうして?、どうして?と言う言葉が突いて出る。ケガや病気で在宅療養、または入院している兄弟姉妹、友人など駆け回って、手助けしていた妹だ。健康を過信して健康診断も受けていない。肩が痛いということで、整形外科にはかかっていたらしい。好転せずそのうちに背中も痛くなったという。整形外科の紹介で総合病院にかかったのは12月になってからという。弟と次妹から姪から聞いたというメールが入っていた。姪に電話し、すぐ行くと伝えた。母が誰にも知らせるな、迷惑をかけるから、と言われていたという。とるものも取りあえず、という形で、でも、病気を抱えた夫を一人にはしておけず、娘に来てほしいと電話し、ドレーンの手当てを頼んだ。
病身だが一応元気な夫に駅まで送ってもらい、小田急・湘南新宿ライン・大宮から新幹線も利用して6時前には高崎に着いた。いつもは、必ず妹が迎えに来てくれたが、タクシーで病院名を言い駆けつけた。
姪が、びっくり、さっき電話で話したばかりなのにこんなに早く来て下さるとは、と礼を言った。
妹は黄疸もひどく、重篤な状態であることがわかった。
姪が、お母さん、Tおばさんが来てくれましたよ、と呼びかけ、私も、陽子どうしちゃったのよ、とし子よ、わかる?、と大きな声で呼びかけた。途端に、はっとしたような目と口を動かそうとする反応があった。分かったようですね、と姪も言うし、私も確信した。きょうだいや親戚、友人などもかけつけ、すでに帰った後だった。2人の弟もさっきまで居たんですが、一旦帰りました、という。おばさんが来てくれてよかったです、と安堵した様子。
姪は手や足をさすっていた。モニターで看護室に繋がれ、異常があるとすぐに駆けつけ、繋がれた管をチェックする。肌に触れていることは安心感があっていいですよ、と言われた。
時々、小さな痙攣があった。私もさすると痙攣が治まる。日が変るころ、今まで真直ぐだった足の膝が上がった。それから両足を横に倒した。今度は、足を組むような形になった。元気が出たのかしらね、というと筋力はありますね、と姪も言う。暫くすると、今度は手を横に伸ばしたり、両手を一緒にベットの手すりに載せたりした。手を握ると、そのままでいたが、やがて手を自分からほどいた。私は、良い兆候ではないかと思ったが、同じ姿勢が苦痛で、身体の向きを変えたかったのかもしれない。呼吸が弱くなったと看護師さんが、鼻に器具を取り付けたが、その後、口への補助器具に替えた。脈、心電図も弱くなり家族に連絡してください、と言われた。
姪も気丈に対処していたが、嗚咽した。何とあっけないことだろう。2時25分だったと思うが、医師が来て診断して、2時54分とさせて頂きますと言った。二人の息子と妹の亡夫の姉S子さんが来てくれた。妹とも仲良く、何でもテキパキ処置できる頼れる人だった。看護師さんが化粧をして下さり、うっすら口紅も塗ったので、かすかに歯が覗くきれいな顔だった。葬儀社を決め電話すると、すぐに大きな車が来た。節子さんは姪と甥に、こちらの希望をしっかり言いなさい。言われるとおりにする必要はないのだから、とアドバイスしていた。でも二人ともしっかりした子でその心配はない。葬儀社は、私の母の時と同じところだった。
めいめい車で来ており、私が、妹の遺体と同じ車に乗った。自宅に安置され白づくめの寝具に横たわって香華とお供え物が置かれた。
早朝だったが、葬儀社との打ち合わせが続き、10時に本格的段取りの打ち合わせがあるそうだ。
密葬を選ばなかったので、近所との連絡もお手伝いいただくことも必要らしかった。
姪が区長さんに挨拶に行った。普段は、東京で働いており、近所付き合いは母だけがしていた。お寺への相談にも二人で行った。葬儀の日程や戒名のことなど決め、手順や用意するものなど、葬儀社に相談し、忙しい買い物など、甥の妻が言われた通り甲斐甲斐しく用意していた。その間、小学校に通う二人の子供のお稽古への送り迎えや、宿題などさせていた。
通夜は身内だけで26日、27日が葬儀と決まった。私は、きょうだい達に電話し、生花を供えてもらうよう依頼した。みな快く受けてくれた。
喪服も用意するものも何もないので、一旦家に帰らなければならない。4時頃、駅まで送ってもらい、26日の納棺までには戻ると伝えた。高齢の私が24時間内に往復するのを、みなが労わってくれた。気が張っているためか疲れは感じなかった。27日は夫の手術についての説明を聞く日。またまた娘に付き添いを依頼した。
松山の弟夫婦は26日に車で来ると言う。次妹雅子は、息子二人と車椅子を載せてくる。東京の次弟の妻,美智子さんは娘2人と新幹線で来てくれる。次弟、雄二が肺がんで亡くなったとき、一番気遣ってくれたのが陽子さんだった、感謝しているという。高崎の長兄も嫂さんも、入退院し、陽子が世話をした。二人も陽子さんには世話になったと、杖をつき参列した。
葬儀には友人たちが最も多く、生前の陽子にいかにお世話になったか、口々に伝えてくれた。
弔辞も親友3人が順番に読んでくれた。三弟(故人)の娘、寧子ちゃんに弔辞を頼んだら、躊躇なく引き受けてくれ、素晴らしい弔辞だった。どれも感動で涙した。甥(喪主)の挨拶ももらい泣きする内容だった。それぞれ、妹とのエピソードを伝え、人の為に生きたことが感じられ、早すぎた一生だったが、こんなに感謝され惜しまれて良い人生だったと言えると思った。
でも、やはり喪失感は大きい。
信じられなかった。一番若い元気印の妹が膵臓ガンに侵されるなんて。どうして?、どうして?と言う言葉が突いて出る。ケガや病気で在宅療養、または入院している兄弟姉妹、友人など駆け回って、手助けしていた妹だ。健康を過信して健康診断も受けていない。肩が痛いということで、整形外科にはかかっていたらしい。好転せずそのうちに背中も痛くなったという。整形外科の紹介で総合病院にかかったのは12月になってからという。弟と次妹から姪から聞いたというメールが入っていた。姪に電話し、すぐ行くと伝えた。母が誰にも知らせるな、迷惑をかけるから、と言われていたという。とるものも取りあえず、という形で、でも、病気を抱えた夫を一人にはしておけず、娘に来てほしいと電話し、ドレーンの手当てを頼んだ。
病身だが一応元気な夫に駅まで送ってもらい、小田急・湘南新宿ライン・大宮から新幹線も利用して6時前には高崎に着いた。いつもは、必ず妹が迎えに来てくれたが、タクシーで病院名を言い駆けつけた。
姪が、びっくり、さっき電話で話したばかりなのにこんなに早く来て下さるとは、と礼を言った。
妹は黄疸もひどく、重篤な状態であることがわかった。
姪が、お母さん、Tおばさんが来てくれましたよ、と呼びかけ、私も、陽子どうしちゃったのよ、とし子よ、わかる?、と大きな声で呼びかけた。途端に、はっとしたような目と口を動かそうとする反応があった。分かったようですね、と姪も言うし、私も確信した。きょうだいや親戚、友人などもかけつけ、すでに帰った後だった。2人の弟もさっきまで居たんですが、一旦帰りました、という。おばさんが来てくれてよかったです、と安堵した様子。
姪は手や足をさすっていた。モニターで看護室に繋がれ、異常があるとすぐに駆けつけ、繋がれた管をチェックする。肌に触れていることは安心感があっていいですよ、と言われた。
時々、小さな痙攣があった。私もさすると痙攣が治まる。日が変るころ、今まで真直ぐだった足の膝が上がった。それから両足を横に倒した。今度は、足を組むような形になった。元気が出たのかしらね、というと筋力はありますね、と姪も言う。暫くすると、今度は手を横に伸ばしたり、両手を一緒にベットの手すりに載せたりした。手を握ると、そのままでいたが、やがて手を自分からほどいた。私は、良い兆候ではないかと思ったが、同じ姿勢が苦痛で、身体の向きを変えたかったのかもしれない。呼吸が弱くなったと看護師さんが、鼻に器具を取り付けたが、その後、口への補助器具に替えた。脈、心電図も弱くなり家族に連絡してください、と言われた。
姪も気丈に対処していたが、嗚咽した。何とあっけないことだろう。2時25分だったと思うが、医師が来て診断して、2時54分とさせて頂きますと言った。二人の息子と妹の亡夫の姉S子さんが来てくれた。妹とも仲良く、何でもテキパキ処置できる頼れる人だった。看護師さんが化粧をして下さり、うっすら口紅も塗ったので、かすかに歯が覗くきれいな顔だった。葬儀社を決め電話すると、すぐに大きな車が来た。節子さんは姪と甥に、こちらの希望をしっかり言いなさい。言われるとおりにする必要はないのだから、とアドバイスしていた。でも二人ともしっかりした子でその心配はない。葬儀社は、私の母の時と同じところだった。
めいめい車で来ており、私が、妹の遺体と同じ車に乗った。自宅に安置され白づくめの寝具に横たわって香華とお供え物が置かれた。
早朝だったが、葬儀社との打ち合わせが続き、10時に本格的段取りの打ち合わせがあるそうだ。
密葬を選ばなかったので、近所との連絡もお手伝いいただくことも必要らしかった。
姪が区長さんに挨拶に行った。普段は、東京で働いており、近所付き合いは母だけがしていた。お寺への相談にも二人で行った。葬儀の日程や戒名のことなど決め、手順や用意するものなど、葬儀社に相談し、忙しい買い物など、甥の妻が言われた通り甲斐甲斐しく用意していた。その間、小学校に通う二人の子供のお稽古への送り迎えや、宿題などさせていた。
通夜は身内だけで26日、27日が葬儀と決まった。私は、きょうだい達に電話し、生花を供えてもらうよう依頼した。みな快く受けてくれた。
喪服も用意するものも何もないので、一旦家に帰らなければならない。4時頃、駅まで送ってもらい、26日の納棺までには戻ると伝えた。高齢の私が24時間内に往復するのを、みなが労わってくれた。気が張っているためか疲れは感じなかった。27日は夫の手術についての説明を聞く日。またまた娘に付き添いを依頼した。
松山の弟夫婦は26日に車で来ると言う。次妹雅子は、息子二人と車椅子を載せてくる。東京の次弟の妻,美智子さんは娘2人と新幹線で来てくれる。次弟、雄二が肺がんで亡くなったとき、一番気遣ってくれたのが陽子さんだった、感謝しているという。高崎の長兄も嫂さんも、入退院し、陽子が世話をした。二人も陽子さんには世話になったと、杖をつき参列した。
葬儀には友人たちが最も多く、生前の陽子にいかにお世話になったか、口々に伝えてくれた。
弔辞も親友3人が順番に読んでくれた。三弟(故人)の娘、寧子ちゃんに弔辞を頼んだら、躊躇なく引き受けてくれ、素晴らしい弔辞だった。どれも感動で涙した。甥(喪主)の挨拶ももらい泣きする内容だった。それぞれ、妹とのエピソードを伝え、人の為に生きたことが感じられ、早すぎた一生だったが、こんなに感謝され惜しまれて良い人生だったと言えると思った。
でも、やはり喪失感は大きい。
by ttfuji
| 2016-01-31 14:45
| 家族・身内・私