2017年 04月 10日
郷土史研究会 『伊勢原神宮寺と相模の村々』虚無僧と尺八 |
4月8日(土)
今月の郷土史の演題は『伊勢原 神宮寺と相模の村々』。
講師は、伊勢原在住の荒井章次先生。
以前に、「将軍に謁見した象の話」や「蛤御門の変」について講義を受けた事がある。どちらも大変興味深い話だった。
江戸初期には尺八の吹奏を修行とする虚無僧の活動を支え統率する虚無僧寺が各地に建てられた。虚無僧寺を抑える大本山が青梅の鈴法寺と松戸の一月寺であり、伊勢原の旧神明社(大神宮)の境内におかれた照見山神宮寺も鈴法寺の末社として虚無僧活動を支えてきた。
虚無僧は、外出時には必ず天蓋を被り「法器」と言われる尺八を持ち、活動許可証・通行許可証を持参すれば、関所や旅宿は比較的自由に通過でき托鉢等行ってきた。
普化宗は禅宗(臨済宗)の一派とされ、幕府にも庇護されて江戸時代虚無僧の活動は比較的自由であった。普化宗が臨済宗として語られる一因となったのは、室町時代の大徳寺の僧一休とも関係があるともいわれる。大徳寺には一休愛用の尺八が残っている。
しかし、時代が下ると虚無僧の活動は次第に制限され、各地で「虚無僧の入国を禁止する」「虚無僧に宿を貸してはならない」などの触れが出されるようになった。虚無僧は托鉢だけで収入もなく、さらに布施や喜捨だけでは苦しく、しかも寺への奉納金もあったようだ。
その経緯は、江戸期後半になると、農村の方でも、大凶作や大飢饉が多く餓死者が出る苦しさの中で、幕府の掟を盾に米銭を強請する僧が多くなると大迷惑だったのではないかと思われる。村は、一定の額のお布施を寺院に納め、その代り托鉢の僧が来ないようにという取り決めをしたもらう。
明治4年、普化宗は廃宗となり、尺八吹奏による托鉢は禁じられたが、この時、尺八そのものの吹奏は禁止されず、伝統楽器としての教授は認められた。
特に福岡の黒田藩の藩士であった黒沢琴古は琴古流を創設し、優れた弟子にも恵まれて、筝や三絃との合奏や歌の伴奏をすることで、尺八は三曲合奏の重要な楽器として普及していった。また、関西でも大阪の中尾都山により、明治29年に都山流が始められ、愛好家を増やしている。
昭和25年には虚無僧が「普化正宗」として宗教法人化され天下晴れて公認され現在にいたっている、という。
先生は、尺八の音色に魅せられ修行されたようです。私たちに一曲吹奏して頂いた。
by ttfuji
| 2017-04-10 23:34
| 郷土史・講演会・学習