2006年 09月 18日
敬老の日 |
15日~17日まで出かけていて日記をお休みした。理由を書こうかやめようか迷ったが、書くことにした。94才の母の、介護ホームの敬老会参加のためである。90過ぎまで、半自立の生活をし、気ままに過ごしていた母も2・3年前から、物忘れ、紛失物の騒ぎがあったりで認知症の症状が出始めた。昨年2月風邪から肺炎を起こし、救急車で運ばれ、治療、回復したが、暫くしてこんどは、CTで脳出血と肺にカゲがあることがわかり、国立病院へ転院。丁度その日、私は母を見舞って高崎駅で妹の出迎えを待っていた。妹が遅れたのは、転院騒ぎがあったからで、私も救急車に同乗で付きそった。兄と妹は車で来ていたためで、国立病院まで車でついていった。適切な処置でそれも回復、落ち着いたあと、老人ホームへの入所の手続き。
今まで同居の兄夫婦や近くに住む末妹Y子が世話をしていたが家庭で面倒を見きれない事情があった。ペースメーター装着の義姉、成人病と闘いながら自営業で忙しい兄、勤めをしているY子、あとの弟妹は、遠くに住む。私も、なんとかしたいと気持はあるが、群馬と神奈川ではやはり遠い。介護に通えば、兄や妹の家に泊めてもらわなければならず、面倒をかけることになる。兄に、「こっちで何とかするから、T子(私)は、M子(すぐ下の妹=通院付き添いをしている)の面倒を見てくれ」、といわれ介護分担の形をとった。
今まで母を見舞ったのは3回だけ、娘として薄情のようで気が咎める。兄夫婦や妹に任せっぱなしで申し訳なく思う。
今回、ホームから、16日、敬老会の催しがあるので、ご家族の方もできるだけ参加して下さい、との通知があったと、妹から電話があり、即時、私が付き添うからと申し出た。夏祭りには兄たちが、去年は妹が付き添っている。付き添うといっても、車いすを押したり、演芸を一緒に見たり、食事を一緒にしたりする程度。母が、唯一、分かるのは、妹だけ。妹は本当に、こまごまと母の面倒を見てくれる。老人性乾燥肌で、かゆみを訴える母の背中に手を入れて掻いてあげると、気持ちがいい、と喜ぶ。食事の時も、祝い膳がでて、小鉢を一つずつ持たせて食べさせている。仕事のない日や帰りに寄って、日用品の点検、話しかけなどよくしているのが伺える。私は、つくづく介護下手だと、反省する。兄嫁さんは、着替えの衣類など、気をつけて買い整えてくれている。以前は、食欲の旺盛な母のおやつを差し入れしていたという。母は、たまにしか行けない私を認知できない。お姉さん、お若いですね、という。妹が、おかあさんの長女のT子姉さん、といっても、私も娘のT子よ、といっても、兄の娘(母の孫)と間違え、もうこんなに大きくなったの、とびっくりした様子。
でもじっと私の顔を見つめる。若く思われて嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちだ。
11時からの式典に古稀の人1名、70代何名、80代何名、90才以上92才まで何名、93才以上何名、と説明があった。93才以上が23名と最も多かった。成る程長寿国である。12時から、2階の広間で祝いの宴、懐石膳とあり、松花堂風、お吸い物、フルーツ、デザート付きの膳。春巻きや飲茶点心のようなおかずも希望者には配られる。家族は、別途申し込みにより、仕出し幕の内弁当とすまし汁。入所者の生活能力がわかり、ちょっと大変な光景だが、職員のかいがいしい介助で何事もなく終わる。職員は、よく教育され、愛情を持って老人に接している。何より、明るく親切である。2時半まで休憩。その間1時間半はある。殆どのお年寄りは昼寝したい時間。しかし、車椅子のまま、うたた寝でおしりが痛くなるだろう。すぐに目覚めてどこかへ行こうとするが、ベッドに寝せてはもらえない。私と妹と廊下を行ったり来たり、本当に当事者も家族も退屈な時間だ。多くの家族訪問者も同じ気持ちのようだ。所在なく過ごしている。なぜ、昼寝をさせてもらえないかというと、夜、眠れなくなるからだという。
午後からの第2部、慶祝状の授与、90才以上に手渡される。母も最前列に並ぶが、うつむいてねている。名前を読み上げられ、あなたは、高齢を迎え毎日を明るく健康に過ごし、その生活は私たちの模範です、というようなことを読み上げられ、手渡せられる。
そのあと、職員による演芸が披露される。トランプの手品、染太郎風の、傘の上のボール回し、寸劇、簡単なクイズ、サザエさん家族に扮した回答者の笑点、切り紙芸など手が込んでいるが、理解できる人は少ないようだ。
家族や、子どもが大きな声で答えていた。4時頃、この日の行事は終わり、感謝の言葉を伝え、母にも、またね、元気でね、というとありがとうございました、と丁寧にいう。帰りに妹がおいしいコーヒー店に案内してくれる。兄、義姉宅に寄り、挨拶。しばし報告がてらおしゃべりする。引き留められたが、夕食は、妹のところでいただく。もう1泊お世話になる。翌日、Y子が、よみうりランドのもう一人の姉M子を見舞いたい、暫く会っていないので、様子を知りたいから、車で私を送るという。伊勢原への途中である。日曜で甥も同行。関越自動車道インター近くの道の駅で、いろいろ買い物し、昼食と土産の用意。都内の道は混んでいたが、昼過ぎにつく。わが家には夕方に着く。帰ると、自治会から、敬老のお祝い金、商品券2千円が届いていた。私も敬老対象の年齢であった。いずれ私も行く道。目をそらすことはできないと思いあえて公開しました。
今まで同居の兄夫婦や近くに住む末妹Y子が世話をしていたが家庭で面倒を見きれない事情があった。ペースメーター装着の義姉、成人病と闘いながら自営業で忙しい兄、勤めをしているY子、あとの弟妹は、遠くに住む。私も、なんとかしたいと気持はあるが、群馬と神奈川ではやはり遠い。介護に通えば、兄や妹の家に泊めてもらわなければならず、面倒をかけることになる。兄に、「こっちで何とかするから、T子(私)は、M子(すぐ下の妹=通院付き添いをしている)の面倒を見てくれ」、といわれ介護分担の形をとった。
今まで母を見舞ったのは3回だけ、娘として薄情のようで気が咎める。兄夫婦や妹に任せっぱなしで申し訳なく思う。
今回、ホームから、16日、敬老会の催しがあるので、ご家族の方もできるだけ参加して下さい、との通知があったと、妹から電話があり、即時、私が付き添うからと申し出た。夏祭りには兄たちが、去年は妹が付き添っている。付き添うといっても、車いすを押したり、演芸を一緒に見たり、食事を一緒にしたりする程度。母が、唯一、分かるのは、妹だけ。妹は本当に、こまごまと母の面倒を見てくれる。老人性乾燥肌で、かゆみを訴える母の背中に手を入れて掻いてあげると、気持ちがいい、と喜ぶ。食事の時も、祝い膳がでて、小鉢を一つずつ持たせて食べさせている。仕事のない日や帰りに寄って、日用品の点検、話しかけなどよくしているのが伺える。私は、つくづく介護下手だと、反省する。兄嫁さんは、着替えの衣類など、気をつけて買い整えてくれている。以前は、食欲の旺盛な母のおやつを差し入れしていたという。母は、たまにしか行けない私を認知できない。お姉さん、お若いですね、という。妹が、おかあさんの長女のT子姉さん、といっても、私も娘のT子よ、といっても、兄の娘(母の孫)と間違え、もうこんなに大きくなったの、とびっくりした様子。
でもじっと私の顔を見つめる。若く思われて嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちだ。
11時からの式典に古稀の人1名、70代何名、80代何名、90才以上92才まで何名、93才以上何名、と説明があった。93才以上が23名と最も多かった。成る程長寿国である。12時から、2階の広間で祝いの宴、懐石膳とあり、松花堂風、お吸い物、フルーツ、デザート付きの膳。春巻きや飲茶点心のようなおかずも希望者には配られる。家族は、別途申し込みにより、仕出し幕の内弁当とすまし汁。入所者の生活能力がわかり、ちょっと大変な光景だが、職員のかいがいしい介助で何事もなく終わる。職員は、よく教育され、愛情を持って老人に接している。何より、明るく親切である。2時半まで休憩。その間1時間半はある。殆どのお年寄りは昼寝したい時間。しかし、車椅子のまま、うたた寝でおしりが痛くなるだろう。すぐに目覚めてどこかへ行こうとするが、ベッドに寝せてはもらえない。私と妹と廊下を行ったり来たり、本当に当事者も家族も退屈な時間だ。多くの家族訪問者も同じ気持ちのようだ。所在なく過ごしている。なぜ、昼寝をさせてもらえないかというと、夜、眠れなくなるからだという。
午後からの第2部、慶祝状の授与、90才以上に手渡される。母も最前列に並ぶが、うつむいてねている。名前を読み上げられ、あなたは、高齢を迎え毎日を明るく健康に過ごし、その生活は私たちの模範です、というようなことを読み上げられ、手渡せられる。
そのあと、職員による演芸が披露される。トランプの手品、染太郎風の、傘の上のボール回し、寸劇、簡単なクイズ、サザエさん家族に扮した回答者の笑点、切り紙芸など手が込んでいるが、理解できる人は少ないようだ。
家族や、子どもが大きな声で答えていた。4時頃、この日の行事は終わり、感謝の言葉を伝え、母にも、またね、元気でね、というとありがとうございました、と丁寧にいう。帰りに妹がおいしいコーヒー店に案内してくれる。兄、義姉宅に寄り、挨拶。しばし報告がてらおしゃべりする。引き留められたが、夕食は、妹のところでいただく。もう1泊お世話になる。翌日、Y子が、よみうりランドのもう一人の姉M子を見舞いたい、暫く会っていないので、様子を知りたいから、車で私を送るという。伊勢原への途中である。日曜で甥も同行。関越自動車道インター近くの道の駅で、いろいろ買い物し、昼食と土産の用意。都内の道は混んでいたが、昼過ぎにつく。わが家には夕方に着く。帰ると、自治会から、敬老のお祝い金、商品券2千円が届いていた。私も敬老対象の年齢であった。いずれ私も行く道。目をそらすことはできないと思いあえて公開しました。
by ttfuji
| 2006-09-18 19:27
| 家族・身内・私