2007年 05月 07日
上杉鷹山と語る会 (第3回) |
この勉強会も最終回を迎えた。2時から5時までだったのを、前回、要望して1時から4時までとしていただいた。
私の友人達は、それぞれ都合が悪く、私だけになってしまった。
雨が激しく、つまらない講義だったら休んでしまおうか、と思うところだが、ゼミ式の勉強会にだんだん興味が増してきたところだし、折角申し込んでうけた授業なので、途中で放り出すのは勿体ない。最後まで受けようと思っていた。
今回は、「鷹山の思想・哲学について」、今までの復習、総括と参加者の意見交換、質問などが行われた。
先生は、今回も何枚もの資料を作って下さった。
米沢藩の改革がどのように行われたか。
① 1704~1763 中心人物 森平右衛門
治憲(鷹山)以前は、郡代、森平右衛門が藩の財政立て直しの
改革を担当していたが、次第に腐敗。
1763 江戸家老 竹俣当綱がクーデターを起こし、
森平右衛門を暗殺。竹俣当綱、実権掌握
② 1765~1779 中心人物 竹俣当綱(タケマタマサツナ)
1765年、竹俣当綱 奉行就任
1767年、冶憲(鷹山)、17才で9代藩主になる。
竹俣当綱の細井平洲(儒学者)への傾倒
鷹山も傾倒し、三顧の礼で藩に招く。士分だけでなく、町人、
農民にも講話する。身分を問わず有能な人材を登用する。
大倹約令執行。
新田の開発 農村の納税システムの整理・支配強化
家臣の労役奉仕 橋の修理 築堤
農村の復興 籍田の礼を始める(藩主自ら鍬打つことで耕作を
重んずることを示す儀式)
代官の世襲制廃止
産業の開発 漆(ろう) 桑 楮 製塩 製陶 藍の栽培
その他 様々な細部に亘る改革
1782、 竹俣当綱が失脚→隠居
理由 四天王を重用し、直言の士を遠ざけた
公費の乱用
上杉謙信への不敬罪
③ 1782~1787 中心人物 志賀祐親が財政改革を担当
しかし、一時的な敗戦投手のような役割だった。
1783~6年間、大凶作にみまわれる。
1785 治憲(鷹山)隠居 (35才) 義父、重定の実子治広を10代藩主に迎える。治広に「伝国の辞」を与える。
藩財政は破綻の極に達し、商人達より新たな借金はできない状態→改革事業の廃止。
④ 1789~1823
寛政の改革 中心人物 ○戸(ノゾキ)善政 中老→奉行
人材登用でノゾキが登用される。新ブレーンで改革に乗り
出すが、締め付けばかりでなく徳政でゆとりを与える。
役所の統廃合、年貢取り立ての緩和、桑・楮の苗の無料供与、
馬市の開催(母馬一頭貸与して子馬3頭上納すれば母馬は
飼い主のものになる)、生産人口の確保、家臣の次、三男の
土着奨励、早婚の奨励、博打は死刑から懲役刑に、その他。
1807年、冶憲、鷹山と改名 52才
1822年、3月12日 逝去 72才
1823年 借金完済
この時代、どこの藩でも、幕府でさえも窮乏に陥っている。名君といわれた藩主も多く居たに違いない。しかし、東北の厳しい地にあってここまで自ら実践して改革を成し遂げた上杉鷹山の功績は素晴らしいと思う。書き取れないところも多いが、大変良い勉強をさせていただいた。
私の友人達は、それぞれ都合が悪く、私だけになってしまった。
雨が激しく、つまらない講義だったら休んでしまおうか、と思うところだが、ゼミ式の勉強会にだんだん興味が増してきたところだし、折角申し込んでうけた授業なので、途中で放り出すのは勿体ない。最後まで受けようと思っていた。
今回は、「鷹山の思想・哲学について」、今までの復習、総括と参加者の意見交換、質問などが行われた。
先生は、今回も何枚もの資料を作って下さった。
米沢藩の改革がどのように行われたか。
① 1704~1763 中心人物 森平右衛門
治憲(鷹山)以前は、郡代、森平右衛門が藩の財政立て直しの
改革を担当していたが、次第に腐敗。
1763 江戸家老 竹俣当綱がクーデターを起こし、
森平右衛門を暗殺。竹俣当綱、実権掌握
② 1765~1779 中心人物 竹俣当綱(タケマタマサツナ)
1765年、竹俣当綱 奉行就任
1767年、冶憲(鷹山)、17才で9代藩主になる。
竹俣当綱の細井平洲(儒学者)への傾倒
鷹山も傾倒し、三顧の礼で藩に招く。士分だけでなく、町人、
農民にも講話する。身分を問わず有能な人材を登用する。
大倹約令執行。
新田の開発 農村の納税システムの整理・支配強化
家臣の労役奉仕 橋の修理 築堤
農村の復興 籍田の礼を始める(藩主自ら鍬打つことで耕作を
重んずることを示す儀式)
代官の世襲制廃止
産業の開発 漆(ろう) 桑 楮 製塩 製陶 藍の栽培
その他 様々な細部に亘る改革
1782、 竹俣当綱が失脚→隠居
理由 四天王を重用し、直言の士を遠ざけた
公費の乱用
上杉謙信への不敬罪
③ 1782~1787 中心人物 志賀祐親が財政改革を担当
しかし、一時的な敗戦投手のような役割だった。
1783~6年間、大凶作にみまわれる。
1785 治憲(鷹山)隠居 (35才) 義父、重定の実子治広を10代藩主に迎える。治広に「伝国の辞」を与える。
藩財政は破綻の極に達し、商人達より新たな借金はできない状態→改革事業の廃止。
④ 1789~1823
寛政の改革 中心人物 ○戸(ノゾキ)善政 中老→奉行
人材登用でノゾキが登用される。新ブレーンで改革に乗り
出すが、締め付けばかりでなく徳政でゆとりを与える。
役所の統廃合、年貢取り立ての緩和、桑・楮の苗の無料供与、
馬市の開催(母馬一頭貸与して子馬3頭上納すれば母馬は
飼い主のものになる)、生産人口の確保、家臣の次、三男の
土着奨励、早婚の奨励、博打は死刑から懲役刑に、その他。
1807年、冶憲、鷹山と改名 52才
1822年、3月12日 逝去 72才
1823年 借金完済
この時代、どこの藩でも、幕府でさえも窮乏に陥っている。名君といわれた藩主も多く居たに違いない。しかし、東北の厳しい地にあってここまで自ら実践して改革を成し遂げた上杉鷹山の功績は素晴らしいと思う。書き取れないところも多いが、大変良い勉強をさせていただいた。
by ttfuji
| 2007-05-07 00:05
| 郷土史・講演会・学習